Mystleteinn

  2.杖



 男はこちらに背を向け、窓の外みていた。
 肩口にまで下された黒髪に紺藍の浴衣。宮にしどけなく肘をつき、片足の膝を組み残りは不安定に床に下されている。その足が時々思い出したようにぶらぶらと揺れて裾から白く細い足首が覗く。男の背格好は彼によく似ていた。いや、彼そのものだった。それにあの縦縞の紺藍の浴衣は彼がここで過ごすために俺が買ったものだ。珍しい染織で同じものは二つとない。
 これはいったいどういうことなのだろう。なぜ彼が、どうしてここに…。俺は夢を見ているのだろうか。いつかこんな光景があっただろうか。それとも、これまでのことが夢で今が現実なのだろうか。
 男は振り向かない。窓ガラスには濃紺の人影が映っているだけで顔は分からない。
 雨は一層激しくなり今にもガラスを割らんばかりに叩きつけ、ばちばちばちと弾ける雨音が部屋中に響く。入り口からベッドまではほんの数歩。だが、永遠ともいえるような距離があるように感じる。黒く長く伸びた自分の影の下には床ではなく真っ暗な谷底で、一歩踏み出すと暗く深い奥底へ真っ逆さまに落ちるのではないか、地獄が大口を開けてぱっくり呑込んでしまうのではないか。そんな巫山戯た空想に捕らわれてしまう。
 それでも男が何者か確かめなくてはならない。名前を呼び、その顔を確かめなくては。震える舌を無理矢理動かす。
「   」
 紡いだ言葉は音にならず空に消えた。ひどく咽喉が渇く。十何年、彼の名を呼んだことはなかった。誰にもその名を呼ぶことを許さなかった。呼んでも応えのない名をどうして呼べるか。噛み締めた唇から血の味が滲む。
 男は振り返らない。
「、ルカ……」
 音が落ちた。情けなく縋る迷児のような、不恰好な音が落ちた。音は弾丸のように降り続く雨音に直ぐにかき消されたが、確かにこの部屋に落ちた。だが、男には届かなかったのだろう、まだ外を眺めている。
「イル、カ……イルカ」
 今度ははっきりと音に、名前になった。上擦った熱っぽい音だ。男は聞こえていないのか、はたまた聞こえないふりをしているのか、ただ只管じつと黒い雨空を眺めている。その瞳には何が浮かんでいるのだろう。虚無か空虚か、それとも顔など無いのだろうか。どうにもならない不安に切羽詰った声が出た。
「イルカ」
 ぴくりと男の肩が動いた。俺は振り向け振り向け、と祈るような気持ちでその背中を見詰めた。それでも男は振り向かない。
「イルカでしょ」
 焦燥に駆られその背に手を伸ばしかけたとき、男はゆっくり振り返った。
 その顔はやはり記憶の中にある彼と寸分違わないものだった。顔の中心を奔る創、しなやかな鼻梁、吸い込まれそうなほど真っ直ぐな漆黒の瞳、双眸を縁取る長い睫毛、ふっくらと柔らかそうな唇、細い首と浮き出た鎖骨。十八年前と同じ顔、いなくなる前に見た最後の姿。
 だけどその目は何も映していない。顔はこちらを向いているが、視線はどこか別のぜんぜん違う方向に向いていた。意思のない人形のような眸。まるで、それはまるで。
「イルカ、なんか言ってよ」
 男は何も言わない。ただじつとそこに坐っている。
「お願いだから、何か……。それとも、あんたも違うのか?違うなら、あんた…誰なんだ?誰だよ…」
 片手で顔を覆い、絶望の淵に立ったような気持ちで目蓋を閉じた。

「だれ?」

 音が零れた。
 はっとして目を開けると男がこちらを見ていた。なにも映さない無機質なガラスのような眸。しかし、男の口唇が再び紡ぐ。
「だれ?」
 聞こえた。彼の声が聞こえた。でもそれは茫洋とした繭に包まれてひどく遠く聞こえる。
「あなたは誰?」
「だれ……あなたは誰?」
 まるで其の言葉しか知らぬ自動人形ように反復する。彼ではないのか。これも、違うのか。
「…俺は、カカシ」
 俺は震える唇でなんとか言葉を発する。
「カカシ?………はたけカカシ?」
「そう!そうだよ。あなたは?」
「おれは、…イルカ。うみのイルカ」
 俺は物の怪に憑かれたようにぼんやりと視入った。
 男は彼と同じ姿で、同じ浴衣で、同じ声で、彼の名を名乗った。でも男は彼と似ても似つかない。焦点の定まらない虚ろな眼、貧弱な今にも消えそうな声、青白く幽鬼のような手、存在そのものが不安定に揺れ、ほんの少し傾けばあっという間に消滅してしまう糸遊ようなものを彼だと認めることができるだろうか。だが、心はいつだって彼を求めているのだ。
 男の視線が動く。嬰児のような瞳はゆっくり男自身の右手の平に向けられた。腕を伸ばしじつと自分の手をみる。その眼は珍しむような、怪しむような、訝しむような、これはなんだろう、と云っているようでもあり、どうしてこんなものがついているのか、と云っているようでもある。ただただ不思議をそうに己の手をみている。その細く白い指先、薄くてしなやかな爪の先に小さな泡が生まれた。それは皮膜の薄さでどんどん大きくなる。
 どんどん、どんどん、
 どんどん、どんどん、
 どんどん、どんどん、大きくなって。
 割れた。

 そこからは音の無いコマ送りのフィルムを観ているようだった。
 指の色が黒と黄色の斑になり、斑点は指先から手甲へ、腕へ、侵食していゆく。斑は濃くなり黒ずんでいき皮膚は、いや、指全体がぷよぷよしたゼリー状に変化した。そして、それは熟れた果物のようにぶよぶよしたゼラチン質状に変わり、爪が剥がれ落ちた。そこから赤と黄色の汁が垂れる。だらだらと流れ出る汁は指を伝い、手甲のぶよぶよと混ざるとぬめぬめした液体となって他の部分を浸蝕していく。そのぬめりが腕を伝い肘からとろとろと下に落ちて粘着質のべとべとした水溜り広がる。
 もう男は男ではなかった。
 その中身はゆるゆると流動していた。顔の皮膚も流れるように溶け、その下の黄色と白の脂肪と混ざりあい膠質化する。鼻筋を辿るように溶け落ちた下からどろどろした白い骨のようなものがみえる。唇の赤と腐った黒が合わさり首筋を流れてゆく。右眼球は滑り落ちた頭皮に絡まった髪の毛とともに流れ溶けた。ただ左目の眼球だけはその洞に収まり、じつとこちらをみてていた。
 やがてそれは人の形を取ることも無くぶよぶよの塊に変わり、ぬめぬめした液体となって足元に広がる暗闇に溶けて広がっていく。次第にそれは俺の影と混ざり一つになった。
 あの左眼球は最後まで俺を見つめ、どぷんと影に溶け―――

「カカシさんっ!」

 不意に視野が拓けた。
「カカシさん?どうしました?」
 見覚えある光景があった。薄暗い部屋、黒い床、開け放たれたカーテン、叩きつける雨音、裂ける雷音。全身に悪寒が走る。顔を上げると、男が首を少し傾け、心配そうな瞳でこちらをみていた。フラッシュバックする記憶。
 これは夢か、現か、幻か。夢ならどこがはじまりだ。
 男は何も答えない俺を訝しみベッドから腰を上げ歩を踏み出そうとした、瞬間
 バランスを崩しその場に頽れた。
「ははは、情けないですね。雨だとすぐこれだ…」
 男はすみません、と謝った。
 俺はその頽れた身体を離さなかった、離せなかった。記憶にある体躯と同じなのだ。
 そう、こういう雨の日、彼はふとした瞬間にバランスを崩し倒れそうになる。何故か一瞬だけ身体が思うように動かなくなるのだと言っていた。だから、こんな日はいつも以上に彼を注視して其の時には直ぐに動けるようにしていた。背中にまわした腕にじんわりと温かな熱が伝わる。首筋に顔を埋め、ゆっくりと呼吸する。懐かしく温かな優しい香りに奥歯を噛み締める。もう大丈夫だから、と腕を押し返す彼を無理矢理抱き締めた。震える腕が分からないように、二度と離れないように、きつくきつく抱きしめた。
「どうしたんですか?カカシさん」
 腕の中に収まっている彼は困惑した表情で俺を見ている。違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。いつもみたいに笑ってほしい。俺だけにみせる微笑で。
 彼は、しばらく俺の顔をみつめたあとふわり、と笑い背に手を回し、「大丈夫です。もう大丈夫ですから」と幼子をあやすように優しく何度も背中をさすると、髪と目蓋に軽く口付けた。
 その柔らかな唇があまりにも優しくて愛おしくて目の前が滲んだ。




3.槍