Mystleteinn

  1.枝



 "信じていれば奇跡は起きますよ"というのが昔いっしょに暮らしていた彼の口癖だった。
 はじめてその言葉を聞いたとき俺はそうかもしれませんね、と曖昧な乾いた微笑を浮かべたのだと思う。彼はそんな返答に慣れているのか、苦笑しながら続けた。
 "俺だって神さまとかそんな存在を信じてるわけじゃないですよ。けどね、自分が生まれて今日まで生きてこれたってことってすごく凄いことだと思うんです。ずっとずっと昔、何十億年も昔になんだかよく分からないかなり複雑なたんぱく質ができてそれに偶然ぴりぴりと電流が流れたら不思議なことに生物が生まれた。さらにそれが偶然番ううちにそれは連綿と続きいつの間にか意識とか心、論理、言葉や文字を操る人間ができあがった。そんな偶然生まれた人間ていうか生き物の奇跡の上に“今”の俺が存在してるってなんだかすごい奇跡なんだと思うんです。"
まるで世界の神秘の片鱗を発見した学者のように瞳を輝かせながらそっと語り、少し紅く染めた頬を照れたように掻いた。もう三十手前できっと教え子の女の子たちから見たら"いい歳したおっさん"のはずなのに、彼の笑みは少年のように明るく純粋でこちらの気持ちをじわりと温かくさせる。それは老若男女関係なくて俺としてはそっちの方が奇跡だと思う。でも、そんな人を掴まえられた俺はなお奇跡か。
 俺はもっと色んな彼の顔がみたくてつい意地悪を言う。人が死ぬのも同じくらい奇跡的なんですか、と。彼は目を細めて困ったように笑って言った。
"そうですね。どんな形であれ一つの存在に終焉を与えるっていうのは一つの存在が誕生するのと同じくらいの奇跡だと思います。だから、俺はその奇跡に呑まれず生きている奇跡に感謝したいし、これからも続くと信じていたい。あ、でも一番続いてほしいのは別のことかな。"
 ふふふ、と楽しそうに笑う彼を見ていると俺は嬉しさと楽しさで心がきゅとしまって幸せと愛おしさを感じた。両腕に閉じ込めて別のことってなに、と聞くと彼は微笑を浮かべて秘密です、と俺の唇を塞いだ。


 目の前に広がる景色は確かに温かく恋焦がれた里なのにどこか余所余所しく違うものに見えるのは単に自分が長い期間この土地から離れすぎていたせいだろうか。建物は昔と変わらず独特の仕様なのにそこに使用されている建材や塗装、看板やネオンの毒々しい輝き、隙間を縫うようにして立てられ複雑化した街やそこに暮らす人の姿・形・格好を見ているとどこか別の里に迷い込んだような気分になる。
 後ろを振り返れば歴代の里の為政者たちの勇壮たるも鷹揚な顔岩がじつと里をみつめておりほんの少し心が軽くなる。
 この高台からは里の人の様子が良く見える。家路を急ぐ者、薄汚い襤褸を身に纏って地面に横たわる者、家族への手土産を悩みながらも楽しそうに選ぶ者、仲間と街へ繰り出す者、引き攣った笑みで客を引く者、沈んだ好奇心から裏の世界へ足を踏み入れる者、足早に愛しい人のもとへと駆ける者。ほんの数十年前は漆黒を塗りこめた夜空が里中を包み星がそれを見守っていたが今はその夜空は明るく染められ煌々と輝いていた星星はネオンの光にその役から降ろされ抜け殻と化した。里は休むことなく動き続けている。
 急ぐようなことはない、ここで一晩中里を眺めていようと歓楽街へと足を運ぼうと俺の行動を咎める者はいない。彼が死んでもう十何年たつのだろうか。
 寂しさと悲しさと怒りがない交ぜになったやるせない気持ちがただ俺を縛り続けている。どうすればいいのか分からなくて身動きが取れなくて嵐が過ぎ去るのをただじつっと待っていたら時間は無情にも流れていた。
 "この世界は楽しんだ者が勝ちなんですよ。あなたは忍の世界じゃ勝者ですけどいつもぼうっとしてるからこっちの世界じゃ負けですね"と呆れた彼が俺の中の錆び付いた刻の動かし方を教えてくれたのはいつのことだっただろうか。忘れるものかと唇を噛み締めても血の味がするだけでボロボロと記憶は零れてゆく。人の記憶は優しくも冷たく書き換えられてゆくのだ。
 それでも今日はよく彼の顔を思い出す。本当は輪郭すらおぼろげだが、笑ったときの口元とか照れたときに頬を描く指先とか暗闇に生白く浮かぶ首筋がぱつりぱつりと断片的に浮かんでは消えるのだ。里への懐かしさに線が繋がったのか、それともこの鬱屈した心情に整理をつけるときがきたのか。
 俺は目蓋の裏に彼を思い描いた。


 彼とともに暮らしたのは二年にも満たなかった。その後どんな女とも結婚も同棲もすることなくいるうちに五十も目前といった歳をむかえた。
 高台から離れ賑やかな夜の街を一人歩く。洒落た異国の館を模倣した建物から伝統的な木の葉造りの建物が立ち並んでいる。形や料金はピンからキリまであるが、その中で行なわれている事は同じ。
 「ネー、アソボヨ」「ニマンエンダヨー」とカタコトの言葉で呼びかける女たちに目をやりながら、最後に処理したのはいつだっただろうかと考える。彼が消えてから、空ろになった身体に何かを埋めたくて白く柔らかな肢体を漁った。一般人から忍、玄人。それこそ男女問わずに求めたが、醜い修羅場が繰り返されるだけで疲れるだけだった。

 寒雷が激しく鳴り、じとりと重く湿った雲が空を覆いつくすようなころ、彼はいなくなった。
 最初は悪い冗談だと思った。
 冗談にしてはあまりにも性質が悪くて、悪すぎて、笑えもしなかった。
 雨粒が大地を殴りつけ轟音が空を割いた。がたがたと窓が震え、内臓に重たい震音がきた。訃報を告げた火影の唇はべつの生き物に、紡がれる言葉はただの音に落ちて消えた。俺は何と言ってどんな顔でその場を退いたのだろうか。よく思い出せない。ただ、部屋に帰ったとき重い雨が雪に変っていた。その年、里は稀にみる大雪に見舞われた。


 騒々しい歓楽街を抜け、眠りに落ちた静かな住宅街の先に我が家はある。忌まわしく懐かしい記憶しかない家だ。空を見上げると星も月も鉛色の雲に隠れている。湿っぽい空気を胸いっぱいに吸い込んでみた。
 今回の任務が終われば左眼は摘出される。年齢と共にチャクラは減少し発動も制御できないことがままある。いずれは視力が失われる事を覚悟してからもうずいぶん経つ。よくよく考えればもった方だろう。火影は片目でも遣うつもりらしいが、限界がある。実質、引退を宣告されたようなものだ。オビトが残してくれたこの眼に俺は何度も助けられた。今の俺があるのはこの眼によるところが大きい。それを取り出すことに抵抗が無いわけではない。だが、きっと限界なのだ。俺も、この眼も。
 そういえば、彼はどう思っていたのだろうか。
 俺はこの眼も含めて俺自身だと思っていたが、彼の目にはどう映っていたのだろう。眼と俺は切り離されいていたのか、一個のものだったのか。こういう話はしたことがなかった気がする。失明の可能性の話をしたときは、どうだっただろうか。少なくとも眼を採り出せとは言わなかった、いや、言えなかったのか。
 門扉を開け警告用のトラップの不備を確かめ、玄関の鍵を取り出す。忍の世界に鍵など不要だが、ソトとウチとを区別する儀式のためには鍵が必要だろう。まあ、これは俺だけかもしれないが。
 ドアを開けると重苦しく埃とカビ臭い匂いが一斉に肺を満たした。久々の我が家は変ることなく何処も彼処もくたびれている。壁に手を伸ばしスイッチを入れると蛍光灯が無愛想に廊下を照らした。サンダルを脱ぎ捨て装備を外すとぽろぽろと砂土が落ちたので、適当にベストも払う。土埃が舞った。
 畳敷きの六畳間は卓袱台と座布団、テレビとおよそ生活感のない白々しい部屋である。外した装備を卓袱台の上に置くとその足で隣の台所へ入り水道の蛇口をおもいっきり捻った。水が勢いよく飛び出しシンクとぶつかって水しぶきが飛ぶ。戸棚からグラスを取り出し流水で洗うとそのまま水を注ぎ、一気に飲み干した。食道を流れ落ちる水の感覚を感じて自分がひどく咽喉が渇いていたことを自覚した。目を閉じ臓腑に染みわたっていくのを感じるがこれだけでは足りずもう一度水を注いだ。外では雨がとうとう降り出したようで、雨粒が激しくガラスに当たる音が響く。様子を見ようと覗き込むと白々しい蛍光灯の照り映えに無精髭が伸び、目が落ち窪んだ中年男がこちらを見返していた。厭なくらい時間の流れを思い出させる瞬間だ。次々と窓ガラスに当たる雨粒がしたたり無表情の男の顔を歪ませ流れ落ちてゆく。
 彼はこういう雨の日はひどくつらそうにしていた。普段はまったくの健康体である彼がこのような日は今にも死んでしまいそうな弱弱しい存在に見えた。手足が凍ったように冷たくなり全身に軋むような痛みが走るらしく、特に古傷が痛むようだった。温めると痛みが和らぐようだったが、それも気休め程度だろう。不安に駆られて右往左往する俺に気にしないで下さい、とこちらを気遣うように笑う彼の優しさが歯がゆく自分の無力さに苛立った。俺は窓から目を反らし、ぼさぼさの髪に片手を突っ込み掻き毟った。そのまま台所とは反対の襖を開けるが、半分ほどのところで手が止まった。そこは寝室として使っている板張りの八畳ほどの部屋だった。向かいの壁際から窓と本棚とベッドがある。カーテンは開き、隣室から入る僅かな照明でガラス越しに部屋の姿が映る。
 そこには入り口で呆然と立つ自分とベッドに腰掛ける一人の男が映っていた。



2.杖