!!CAUTION!!
この話は"Fugit irreparabile tempus."の続きとなっております。





 最悪な毎日を彩るのは語りつくせぬほどの悪行の数々。正義を武装し愛と平和を破滅させ悲惨と憎悪を生み出す。歓びはとうに消滅している。ただ只管狂った野獣のように惨めに情け容赦なく踊り続ける。
 行く手を阻むものには大儀という鉄槌を食らわせなくてはならない。振り翳した相手は血と泥を着飾り苦痛、怨恨、悲嘆、恐怖の四重奏を奏でる。その旋律はなんと醜く惨たらしく郷愁を誘うのだろうか!
 饗宴はまだ続く。可憐な紅と白の罌粟(ケシ)は舞台の上で踊る壊れた傀儡を嗤っている。虚偽と涜聖の味がする酒が湯水のように流れる。極上で野蛮な料理が人々を誘い溺れさせる。
 終わりはみえない。いや、終わりなど存在しない。


Amoris vulnus idem sanat, qui facit.


 戦争は泥沼化し終焉がみえない。鬱蒼と茂る未開の森で展開されているのは一般兵士による遅々として進まぬぶつかり合い。散々に展開しすぎて収集がつかなくなった部隊は小競り合いを繰り返すだけで互いの勢力は無意味な拮抗を保っている。そのような現状を打破するために忍の本格投入が決定されてはや3ヶ月。忍自体は当初から暗躍をしていたが本格投入となると話はまったく違うものとなる。無為残忍の蛮行が功を奏し現在はこちらが有利となりつつある。それでも終わりが見えない。
「先輩、どうかしたんですか?」
 先程からちらちらと伺うような視線を向けていた後輩の口から出たのは意外な言葉だった。
「なにが?」
 どうかしたのか、と聞かれてもどうもしない状態では答えようがない。
「え、いや、なんというか、その、お疲れになっているようにみえたんで…」
 期待していた答えと違うものだったのか、後輩は少し慌てたように言葉を繋げた。たどたどしいそれは最後には少し小さくなった。ただでさえ面をしていて聞き取りづらいのにごにょごにょと話すな。露出狂なみの変態武装で奇怪な面をした男がもじもじとしている姿は非常に見目麗しくなく精神衛生上悪い。おまけにその面の下の顔を知っていると思うと妙に腹正しく蹴り飛ばしたくなる。そんな気持ちを億尾にださず適当に相槌を返す。
「ああ、まぁ、いくら俺でもさすがにこれだけ長引くとね」
 確かにこの半年くらいは怒涛の日々だった。隠密として働いたあと暗部を限定除隊されて一般部隊と行動したがすぐに暗部復帰。肉体的というより精神的に疲れているのかもしれない。しかしそれを後輩に指摘されるとは…。こいつに他者を気遣うだけの余裕があるのか、それとも本当に自分は他者に気遣われるほど疲弊しているのか。
「そうですよね」
 後輩は少しホッとした様子だった。同意を得られた事が嬉しいのか気分を損ねなかった事に安心しているのか。まぁ、どちらでもいいけど。


 夏の灼熱は勢いを留まることなく続いている。目を焼く太陽、茹だるような暑さ、鼻が?げるような腐臭が体力も気力も奪って行く。鬱々とただ時を貪っても赤く黒ずんだ腕が捕らえるのは空虚のみ。
 いつ夏が終わって秋がはじまったのだろうか。今は本当に秋なのだろうか、ただ夏の幻想に囚われているだけじゃないか。愚かだ。季節の移ろいに明確な境界線はない。切り替えのスイッチは存在しない。少しずつ少しずつ侵食し気がつけば何の違和感もなくそこに存在している。
 そして俺も言いようの無い感情に少しずつ侵されている。澱んだ血のように全身を巡り続け全ての細胞を侵食していく。満たされる事のない飢餓感に狂いそうになる。意識すればするほどそれは強くなり身動きが取れなくなる。滑稽だ。他国にまで名を馳せ二つ名を持つ男がたった一度それも名も知らぬ相手の裏切りにこんなにも打ちのめされているとは!
 いや、あれは裏切りではない。
 自分と黒豹の間には何もない。名を交わすほどの信頼も再会の約束も果たすべき信義も応える期待もない。一期一会。唯一の邂逅。幾重にも張り巡らされた糸が交わった一瞬。そう、あれは神の悪戯にすぎない。厭倦と怠惰に過ごす俺に憤怒した悪魔が仕掛けた呪いの遊戯だ。ただの戯れだ。


 任務地では一般兵士による泥沼の殺し合いが行われていた。強靭な肉体も特殊な忍術も持たぬ彼らは剣や槍でどちらかが倒れるまで刺し続ける。正統な戦争。それに対して忍が行うのは非道の殺戮。殺しに正統も非道も無いというのは解っている。それでもこれから行われるのは惨たらしく目を覆いたくなるようなものばかりなのだ。
「俺はあっちを片付けてくる。お前はこっちを頼む」
「了解です」
 従順な後輩は素直に命令に従う(従順じゃなくても忍は上からの命令には従うものだが)。味方であっても小規模な部隊なら見殺しにしてもいいという許可が下りているから木遁忍術を扱うこいつは豊富な土を利用して一気に片をつけるだろう。 「終了次第、野営地に帰れ」
「…了解しました」
 後輩が全てを言い終えるよりも前に俺はその場から離れた。あいつが不服なのは知っている。しかしどうしても今日は一人で行動したかった。単独行動が危険を伴うものであることは十分承知している。戦闘に余計な時間がかかるし負傷してもサポートしてくれる者はいない、チャクラが切れれば忍犬も呼び出せずその場で自害するほか道は無い。この身体はあまりにも多くの機密を抱えている。塵一つ残さず消えなければならない。死んでまで里に迷惑はかけるのは本意ではない。
 それだけのリスクを認識しながら単独行動に出る意味は、自分でもよく解らない。今日この日がなんであれ永遠に変らない最低最悪な毎日の一つにすぎないのにどうしてこんなに愚かな行動をしているのだろう。この行動に理由は、意味はあるのだろうか。もしかしたら理由がないことが理由かもしれない、きっとあいつは納得は出来ないだろうけど。
 考えても答えは出ない。

 振り掛かる長刀をクナイで受け止めすぐさま相手の足を払う。体が傾いたその一瞬、力任せに長刀をなぎ払い漆黒に輝くクナイを咽喉元に突きたてる。「がぇあ!」と声にならぬ不自然な叫びを聞き流し、突き刺したクナイをそのまま横に滑らせた。真っ赤な鮮血が勢いよく噴出し接近していた兵士の顔に掛かかる。生温かくぬめつくその不快な液体に男は引き攣れた悲鳴を上げ、その場で嘔吐した。戦意を喪失した者にあるのは死のみ。地面に転がる長刀を掴むと蹲る男の背中に突き刺した。その瞬間、背後から絶叫とともに銀色に輝く刀が勢いよく振り下ろされる。条件反射で避けると男の刀は死した仲間の身体に突き刺さった。勢いよく振り下ろされた刀は深く突き刺さっていた。抜けない刀に男の手が震え口から呂律の回らぬ声と白い唾液が垂れる。頭を鷲掴むと180度回転させた。ごきっ、と鈍い音が聞こえると同時に男の体がその場にくずおれた。
 逃げ出す者を許す理由は無い。耳を劈くような甲高い悲鳴を上げ縺れる足で我先にと逃げようとする兵士たち目掛けてクナイを投げる。それは吸い込まれるように彼らの足に突き刺さった。一斉に地面の上に転がる。足に刺さっているクナイと痛烈な痛み、暴力的な恐怖に泣き叫ぶ。
 圧倒的な力の差を見せても向ってくる者はいる。彼らを動かす行動原理はなにか。勇気か恐怖か国への忠誠心か生への執着かそれとも諦観か。
「死ねぇぇぇえええええっ!!!」
地の底から這うような声を上げ憤怒の形相の男が切りかかってくる。最初の攻撃を避け距離を開けるが男は怒り狂った猪のようにあっという間にその差を縮める。二度目の正面斬りを中型クナイで受け止める。がっ!と刃物がぶつかる金属音がして火花が散る。重い刀だ。だがこちらは正統な試合をしているのではない。
 地面を蹴り上げ砂を舞いあげる。男の目に細かい砂が入る。
「なっ!卑怯だぞっっ!!!」
 目を擦り腑抜けとなじる男を横目に「結構」と言い放つとその太い腕を切り落とした。地面に転がる自分の腕を見つめる男の顔は何が起きたか理解できていないようだった。しかし次の瞬間「腕がぁぁああああ!俺のっ、俺のっ!!!」と喚き出した。火が点いた赤子のように泣き叫ぶ声はひどく不快にさせた。もうこれ以上一秒たりとも聞きたくなくてその醜い口に拳を突っ込んだ。男は目玉が飛び出るくらい目を見開き驚愕の表情でもごもごと何かを哀願している。だが、もう遅い。
 その場が恐怖に凍りつく。
 今、自分がどのような顔をしているか、わからない。知りたくない。
 柔らかな舌を掴むと勢いよく引き抜いた。ぶちっ、と千切れる音がしたあと男の口から大量の血がとめどなく流れた。男を見遣ると痛みと恐怖に気絶していた。手中にある生温かく汚い肉の塊を捨てると再びクナイを構えなおす。これは戦争じゃない。一方的な暴力、殺戮だ。
 一歩踏み出すと狂い切れなかった者たちが軍刀片手に一斉に向かってきた。全てを受け流しつつ少しずつ処理していく。暗部の面は視界が狭く動きにくいが一般人の気配を読む事などたやすい。屠殺作業は単調だ。腹を掻っ捌き臓物を突き刺し腕を落とし足を潰し首を飛ばす。異形の死体が増えてゆく。
 救援部隊も呼べない小隊は致命傷を負った時点で助かる見込みは無い。息の根を止めなくても急所をつけばそれで終わりだ。もう大部分は片付けた。あとは残り二人。
 目の前の男は回りに転がる味方の死屍を物ともせず攻撃してくる。迷いのない太刀筋はどれも急所を狙っている。もしかしたらこの部隊の隊長かもしれない、と頭の端で考えた。残りの一人は隙あらばと狙っているようだが生憎くれてやるような隙は無い。
 何度か忍と殺りあった事があるのか一分の隙も与えない。純粋な剣術ではない攻撃はどれも意表をつくものばかりだ。しかしこちらはあくまでも忍なのだ。剣技にこだわる必要は無い。手に持っていたクナイを男に投げつけ距離をとる。男がクナイを避けようが止めようが関係ない。その一瞬さえあれば簡単に印は組める。
「火遁・鳳仙火の術ッ!」
  口から吐き出された複数のの火弾が一斉に男に向かって飛ぶ。男が紙一重のところで裂けたと思った瞬間、火弾が弾けとび中に仕込まれた手裏剣が男目掛けて飛んでいった。態勢を立てなす暇もなかった男はそのまま高熱に熱せられた手裏剣を全身に浴びた。刹那、闇を引き裂き地獄の亡者を目覚めさせる絶叫が響きわたる。死の淵に引き摺られるような断末魔に背後に潜んでいた男の気配が揺れた。瞬時にホルスターに手を伸ばしその額に突き立てようとしたが、目の前の死に損ないの男が不敵な笑みを浮べていた。嫌な予感する、と思うのと同時に上から不穏なチャクラの気配が蜘蛛の巣のように張り巡らされてゆく。
「くそ、呪札か!」
 呪札はチャクラをもなたない人間が対忍戦で使用する補助武具。血液に反応して中に封じ込められたチャクラが発動する。主な効果は敵の捕縛。素早い忍を捕まえて殺すためのとっておきの切り札。
 空中で発動した札は内部のチャクラが地面に吸着した瞬間に呪が完成する。ならば地面に到着するよりも前に呪札本体を焼けばいい。すぐに別ホルスターから起爆札付きのクナイを取り出し投じ、手に持っていたクナイで男の息の根を止める。安堵の束の間、残り一人が獣のような雄たけび上げ軍刀を片手にすぐ後ろに迫っていた。最後まで面倒な、と思った瞬間ひゅん、と甲高い音が聞こえ男の身体が宙に浮きすぐ脇の樹に飲み込まれた。
 何が起きたんだ、と思うよりも前に葉が生い茂る樹の上から血と尿と吐瀉物がぼどぼどと落ちてきた。間一髪でそれを避けると次は生首が落ちてきた。それは先ほど消えた男だった。汚物の中に落ちたそれは舌をだらりと出し穴という穴から血を流し真っ赤な目で空を睨んでいる。それにつられるようにして上を見上げると濃緑に覆われた樹の枝の上に一人の男が立っていた。
 
「援護に、と言われたのですが…必要はなかったみたいですね」

 上から落ちてきた声は静かで落ち着いていた。こちらを見下ろし陽の当たらぬ樹の中に立つ男の顔はわからない。
 だが、俺はこの声を知っている。その瞳がどれだけ凶暴で魅力的か知っている。

「いや……助かったよ」

 地面に視線を落とす。首だけになってもなお空を睨む男いた。あの程度の攻撃なら避けて反撃することなど造作もないことだった。だが、この男があの男のように呪札のような武具を隠し持っていたかもしれないという可能性を捨てきれない。そういう意味でも男の助けは必要だった。そんなニュアンスが伝わったのか「なら良かったです」と少し安堵した調子の声が返ってきた。
 転がる顔には早くも血臭を嗅ぎつけた蠅が死体の周りに集りはじめた。ブゥンブゥンと羽音が唸る。耳鳴りのように響くそれは次第に大きくなる。無音の森に死が谺する。
「降りてきてよ」
 耳に入った自分の声はとても小さく感じた。黒豹にまで届いただろうか。蠅の羽音より小さくはなかっただろうか。意味の無い動揺に動揺する自分が嫌になる。がさ、と葉音がして顔を上げると樹の下に一人の男が立っていた。
 真っ黒な瞳真っ黒な髪、顔を横切る一文字の疵。
 間違いない、黒豹だ。
 もっとよく見たくて邪魔な面を外す。すると黒豹がはっと息を呑み顔を背けた。
「面取ってもいいんですか?」
 その声には何で面を取るんだ、という非難が混ざっていた。
「別にいいでしょ。こんなもの相手に恐怖心を与えるただの小道具に過ぎないんだから」
 顔は人の象徴だ。その顔が人ではない不気味な哂いを浮べた異形のものに駆られる恐怖は並大抵のものじゃない。恐怖に攻撃の刃が鈍る可能性も高くなる。そこを狙うのだ。なんとも忍らしい。
「隠密性が高い暗部の情報保護のためじゃないんですか」
 顔を伏せたまま黒豹は言う。彼が言っているのは一般論だ。機密性の高い任務に従事する暗部に許された顔を見たものには死を与えるという俗説。
「こんな面で顔守ろうなんて甘いんだよ」
 本気で個人情報を死守したければ面が外れる瞬間からのっぺらぼうにでも変化すればいい。面で顔を守ろうとしている奴はここで生き残る事なんてできない。手に持っている面に少し力を加える。するとぱきっ、と音がしてひびが入り真っ二つに割れて地面に落ちていった。血で真っ赤に染まってもなお哂う面。
 落ちた面を見て黒豹が小さく溜息をついた。
「あなたが変った人だってこと思い出しましたよ」
「それは、どーも」
 黒豹の漆黒の双眸が俺を射抜く。凪いだ瞳には世界に反抗的するような色はなかった。それは俺に落胆をもたらすかと思ったが意外にも気分は下降する事は無い。
「腹の傷は?」
「おかげさまで。こうやって動く分には支障ありません」
 あの裂傷が一ヶ月で完治するとは思えない。膿んでいたので応急処置として焼き切ったが医療忍が見れば眉を顰めただろう。だから黒豹の言うとおり任務に差し支えない程度にまで回復しただけなのだろう。
「そ。なら良かった」
 生暖かい風が髪を撫でる。温かく湿った風だ。あの時とまったく変らない。土と泥、鼻につく硝煙、錆付いた血の匂い、肉が焼ける刺激臭、饐えた吐瀉物、息苦しいほどの暑さに腐りはじめた肉塊。変ったのは瀕死だった黒豹が隣に立っていることか。
「戻らないんですか」
 森々と沈み込んだ墨のような黒い瞳がこちらを見ている。形容し難い感情がずるずると俺を奈落の底へと引きずりこむ。苛立ち、焦燥、困惑、悲観、歓喜、どれも違うようだが全て当てはまるような気もする。わけが解らない。今日も最悪だ。
「俺さ今日、誕生日なのよ」
 取り敢えず行動するための理由が欲しい。意味の無い殺戮の理由が、俺がしたことの、しようとすることの理由が欲しい。
「それはおめでとうございます」
 なんの感情も無い平淡な賛辞。
「だからさ」
 言うと同時に右目を開き白く無防備な手を掴む。一瞬の反応すら写輪眼で封じその身体を大地に引きずり倒す。どんっ、と大きな振動が伝わった。
「犯らせて」
 黒豹の秀麗な眉が顰められる。それは硬い大地に打ち付けられた痛みによろうものか味方に犯されようとしているこの状況にか。大部分の運動神経は暗示によって麻痺させたから手足は動かせないが視線を動かしたり口を開けたりすることはできる。黒豹はこの非道を詰問するか止めさせようと懇願するか、どちらにしろ激しく抵抗されるのは目に見えている。生きることにも死ぬことにも反抗する男だ。
 だが、予想に反して彼は静かだった。頭上で掴まれた自分の手と両足で腰を抱え込むようにして馬乗りになった俺を交互に見遣ると諦めの溜息をついた。
「俺なんかに強請るより、給食班に飯を強請るほうがよっぽど健全建設的だと思いますが」
 確かに黒豹の言っていることは間違ってはいない。その方がお互いのためになるし、これからも永遠と続く戦に備えやすい。そう頭では理解しているのに開いた片手はベストのジッパーに手をかけている。
「臭い飯食うよりあんたのほうがいいよ」
 ジジジっ。下がる音がやけに大きく聞こえた。首筋に顔を埋めると土と埃、汗が混ざった生きた人間の匂いがした。耳の下から顎の下までの薄い皮膚に唇を這わす。タートルネックを下げて白い首筋を舌で舐める。太い動脈に舌を這わせる。最初に殺した男はこの動脈から鮮血を噴出していた。温かく塩辛い味は甘美なる生の味わい。
「あなたホント変った人ですね」
 黒豹が心底呆れたといった口調で述べる。
「そうだね、俺もそう思うよ」
 同意はするが手を休めるつもりはない。アンダーの裾から手を忍ばせる。触れたのは肌ではなくて包帯だった。ちょうどこのあたりにあの傷があるはずだ。そろそろと傷口をなぞるように撫でる。目を瞑ればあの時の光景がすぐに蘇る。大地を真っ黒に染めるほど血と水あめのようなぬちゃぬちゃとした膿を吐き出した黒豹の姿が。―――あれも最悪の一つだ。
「わかりました」
 腹を決めたのか真っ黒な瞳が歪んだ空を見つめてこう言った。
「二択にします」
「は?」
「あなたが選べる選択肢は二つ。今この場で俺を犯すか、速やかに術を解き俺と再会を結ぶか」
「なにそれ」
 いぶかしむ俺を無視して黒豹は澱みなく言葉を紡ぐ。顔を上げるとの幽玄な暗黒の瞳とぶつかった。そこには迷いも恐れも無い。純粋も汚濁もない紫黒の水晶には無表情の俺がいた。
「もし前者をとった場合、今後俺はあなたと会うことは絶対にありません。必然も偶然も一切ありません。これが最初で最後なります。ですがもし後者を選ぶなら俺はあなたに再会という約束をプレゼントします」
 迷いの無い言葉はあまりにも唐突で突飛な内容だった。
「…忍が約束だなんて信じると思う?」
「約束が生温いとおっしゃるなら契約と捉えていただいていいです」
「契約?」
「そうです。口寄せと同じ、血の契約です」
「あんた自分が何言ってるかわかってる?」
 忍にとって約束と契約では重みが違う。約束は叶わない事も前提に含まれるが契約にはそれがない。契約者は身を滅ぼそうが命が消えようが関係なく契約内容を履行する業を背負う。
「解ってますよ。それと契約の話はこの場しのぎのでっちあげじゃないですから」
「運命を捻じ曲げて再会を約束してくれるってわけ?」
「そうです」
「明日をも知れぬ身なのに?」
「残念ながらあなた俺と再会するまで死ねなくなりますね」
「まるで呪いだね」
「ご愁傷様です」
「そんな他人事みたいに言わなくても」
 状況としては明らかにこちらが有利のはずなのにどうして黒豹はこんなにも強気なのだろうか。それにその手の契約は術者の負担が大きいはず。
「それで、どっちを選ばれるんですか」
 黒豹は凪いだ海のように全てを飲み込んだ表情で選択を迫る。
 刹那の快楽か確約の再会か。前者を選べばあの不可解な感情を吐き出すことができるかも知れない。だがその後、永遠に会うことは叶わなくなる。一体何を根拠にそう言切るのか解らないがこの男ならやり遂げそうな気がする(俺のこの考え自体にも根拠は無いのだが所謂忍の第六感というやつだ)。なら、後者の再会の約束も確実なものとなるのかもしれない。惨憺で暗澹たる径路にそれは何を齎すのだろうか。
 しかし人間は愚かなほど欲望を持っている生き物。だからできるものなら、と本音を述べてみる。
「どっちも欲しいんだけど」
 黒豹は呆気にとられた顔をしたあと「二兎を追う者は一兎をも得ず、ですよ」と答えた。無駄だと解っていたのに悪足掻きをするなんてらしくない。だったら答えは決まっている。
「これが俺の答えだよ」
 右目を開く。刹那、硬直していた黒豹の身体が弛緩した。ぴくり、と腕が動き起き上がろうとするが体勢的には俺が有利である事は変わりないので簡単に押さえ込める。頭上の両腕をぐっと大地に押し付けると黒豹の眉が顰められた。
「退いていただけませんか」
「契約を済ませるのが先じゃない?」
「いや、契約するために退いてほしいんですけど」
「でもあんた離した瞬間に逃げそうだし」
「失礼ですね。じゃあ取り敢えず片腕だけでも放してもらえませんか。このままじゃホントに何もできませんから」
 黒豹は困ったように笑う。腕に視線を転じると右指が解放を訴えていたが利腕を手放すほど愚かじゃない。左腕だけ放した。
 黒豹は解放された左手を引き寄せると手を握ったり開いたりして感触を確かめた。そしておもむろに口元にもってくると人差指に白い歯を突きたてた。ぷつり、と赤い珠が流れ出る。
「手を出してもらえませんか?」
 深く歯を立てたのか指先からは紅の雫がとめどなく生まれ流れ落ちている。
「んー、でもこのプロテクター外れ難くなってるからねぇ。それって血文字を書いて契約を結ぶってこと?」
「そうです。血文字が俺とあなたを繋ぎます」
「その血文字はずっと残るの?」
「いえ、水で洗い流せば消えますよ」
「じゃあチャクラでも篭めるの?」
「まさか、他人にチャクラを篭めた血文字を書くのは禁止されてます」
「じゃあどうするわけ?」
「最初に種明かししたマジックなんておもしろくないじゃないですか」
「まぁ、確かに」
 別に契約の仕組みに興味は無い。プロテクターを外すのが面倒臭いというのもあるが、ただ手に書くということが面白くない。もっと別の、脳髄に刻み込むような部分に印されなければならない。
「んーじゃあ、顔に書いてよ」
「は?」
「こっちの左目蓋の上に書いて」
 とんとん、と鉤爪で左目を叩く。黒豹の顔がおもしろいくらいに歪んだ。
「あなた悪趣味ですね」
「そうみたい」
 からから、と乾いた笑いが漏れる。生憎と高級な思考は持ち合わせていない。冥暗の日々に現れた享楽は瞬く間に消える極彩色の陽炎。掴めはしない。
 黒豹は憮然とした面持ちで赤く濡れた指先を伸ばした。開いた右目でじっと黒豹の顔を見る。土埃に汚れた肌、虚無の瞳、深紅の唇。音になることなく唇は何かを紡ぐ。読唇術でも読めないくらい小さな唇の動き。その動きに反して生温かく湿った指は大胆に目蓋の上を踊る。錆びた死が写輪眼の上を駆け巡り右に左に不規則に揺れる。回り、飛び、落ちて、跳ねる。指が何を描いているのかわからない。
 わからない、と思っていると突然終わりがやってきた。
「はい、これで終わりです」
「終わり?」
 痛みも身体が重いなど違和感も何も無い。若いて言えば乾いた血が引き攣ることと血臭か。
「終わりです」
「別に何とも無いけど」
「そんなもんです」
「ふ〜ん」
 相槌を打ちつつ押さえていた腕を解放し上から退いた。黒豹は自由になった右手の動きを確かめるとゆっくりと立ち上がった。両腕を頭上に上げ背筋を伸ばし高潮した筋肉を解すと腰周りの砂土をパンパンと払う。その土埃を払う手一瞬止まった。みると左人差指から未だ血が流れていた。黒豹は煩わしいな、といった表情で左指を口に咥えた。その顔はすぐに舌の上に広がる鉄錆の苦味に顰められる。口から指を出すとてらり、と血で滲んだ唾液で光る指をみて「ちょっと深く噛みすぎた」と呟いた。
 その仕草がひどく幼くみえて思わず引き寄せ口唇に噛み付く勢いで口づけた。
 今度は暗示なんてかけない。
 不意をつき無理矢理引き出した舌は予想通り鈍く重い鉄錆の味がした。咽喉から臓腑を焼く毒杯を呷ったようだった。黒豹は眉を寄せて引き剥がそうとする。温かくて柔らかい唇と反して行動は冷たく頑なだ。絡めた舌に硬い歯が立てられ噛み切られる、と思ったがそれもどうでもよくなり唇を重ね続ける。黒豹の瞳に困惑の色が浮んだ。
「ふぅ…んん…」
 重なった唇の隙間から甘い吐息が零れる。渾身の力で肩を押し返す力にこれ以上やると殺されるな、と漠然と考える。死の香りで満ちた口腔をまさぐり最後に唇を吸い上げ唇を離すと唾液と血の糸が二人の間を伝った。
 熱い息を吐く赤い口元を鉤爪でなぞり解れた黒髪のかかる耳朶に唇を寄せる。
「キスは駄目じゃないでしょ」
 契約違反じゃないよね、と囁いた瞬間、左頬に衝撃を受けた。
「ッた…」
 口の中に錆びた味が広がる。先ほどのキスとはまるで違う。より濃くより深い血の味。
 黒豹に殴られたのだ。
「取り敢えずこれで半分チャラにして差し上げます」
 顔を上げると黒豹が握り拳片手に笑っている。しかしその目は荒涼な大地のように冴え渡り一片の情も存在しない。まさしく虚無。
「もう半分は次ぎあったときに頂きますね」
 黒豹は猫科よろしくにっこりと目を細めると姿を消した。

 俺は黒豹が消えた後もその場を見続けた。暫くして殴られた左頬が焼けたように熱くなった。口の中は吐きたくなるような血錆の味と臭いが充満している。殴られた部分は熱を持ち腫れるだろう。だが、どうしてか腹が立たない。むしろ大声で笑いたい気分だ。
 ごろん、と仰向けに倒れる。一片の草も無い痩せた大地は硬くて寝転んでも痛いだけで一つも気持ちよくない。空は褪めた色でこちらを見下ろし太陽が網膜を潰す。穢れ澱んだ空気は肺や咽喉を焼き、噎せるような血臭と悪臭に気が狂いそうになる。呼吸するだけで、生きているだけで猛毒を取り込んでいるようだ。そんな地獄の責め苦にあってもまだ笑いたいと思えるのだから、俺はつくづく最悪の人間だ。


 盛宴は滞留を知らない。苦悩と自堕落の美酒は暗渠へと滴り陶酔と悪夢を纏った晩餐は清浄な愛を謳い続ける。壇上では賤しい木偶が萎れ枯れた罌粟(ケシ)に無垢な慈悲を乞い、捩れた四肢と焼けた咽喉をもつ亡者が破滅と創造を語る。そこには一筋の光も見えない。朝を告げる鶏鳴も聞こえない。
 最悪の日々は続く。穢らわしい蠅どもが残虐な翅音をたてて民衆を追い立てる。傷だらけの手は石すら掴めない。願いは疾うに奪われている。
 それでも道化は幸福が融けた径路を盲しいた眼睛で歩き続ける。