Fugit irreparabile tempus.


茹だるような暑さ。
辺りは血臭が漂い、不快指数が増す。血錆と硝煙と土草の匂いが重い空気に凝縮し嗅覚が麻痺する。
じりじり焼け付くような陽の光が体力も忍耐力も奪ってく。澱んだ空気に脳が酸素不足になる。左目の写輪眼がずきずきと痛む。時折強い痛みが襲ってきてクナイで取り出したくなるが親友の意思を無駄にするわけにはいかない。意識は濁り鈍っている。だが、それでも歩く。人が足を踏み入れることの無い森の中をただひたすら歩く。水分を含んだ土は歩き難く、縦横無尽に広がる蔦が行く手を阻む。どこまで歩いても変わらぬ景色に認知力も判断力も鈍る。
血臭が濃くなった、と思った瞬間、視界が開けた。ぽっかりと空いた空間には突き刺すような光が差しこみ、網膜を焦がす。
目の前には一頭の黒豹が横たわっていた。黒豹の腹からは夥しい量の血が流れ、周りの草木を赤黒く染めていた。ブラッシングすれば美しいであろう黒い毛並みも血で薄汚れていた。
一歩踏み出すと鋭い眼光で睨まれた。こちらを敵と判断したようだ。瀕死状態にもかかわらず身を起こしこちらを威嚇しようとする。身体全体で息をするがその度に血がどくどくと流れた。肉を引き千切るための牙も真っ赤に染まっている。こちらが全てを握っているのにその瞳には全てがあるような気がした。
だから助けた。
普段は死に行くものを助けたりはしない。戦場ではそんな真似は無意味でしかない。誰かに縋らなければ生きられない者はここでは生きる資格が無いのと同じだ。強いものが生き弱いものが死ぬ、淘汰された世界。それがここの全てだと思っていた。

陣営に黒豹を連れ帰ると奇異の目で見られた。当たり前だ、誰が好き好んで厄介者を持ち込むだろうか。自分に宛がわれたテントに戻ると黒豹は浅い呼吸を繰り返しているが虫の息だった。生憎、医療知識は最低限のものしか持ち合わせてはいない。医療従事者にみせればよいのだろうが、この黒豹を誰かにみせる気にはならなかった。また黒豹もそれは望んでないように思えた。
毎日少しずつ水と食料を与える。だが黒豹の意識は朦朧としているため食料は砕いて水と一緒に流し込んだ。一日一回薬を塗ったが、この劣悪な環境下では膿は免れなかった。血で固まった毛を布で拭ってやるとあまり意味は無かったが、顔に古傷があることが判った。

毎回、薬を塗る前にクナイで膿を取り除いた。傷口にクナイを刺しがっと起こして剥ぎ取る。帯黄白色の粘液がどろりと流れた。臭気が漂い、咽喉の奥が熱くなった。
ただ一番深い腹の傷だけはそういうわけにもいかなかった。皮下に膿がたっぷりと溜まり、患部が腫れてきて、熱っぽくなっている。このままでは皮膚が腐り、肉が崩れて、血膿が流れ出てくるまでそう時間はかからないだろう。
「…焼き切るけど、麻酔なんてないから」
口に布を噛ませ、手足を拘束した。黒豹は目を瞑り、布を噛み締めた。
真新しいナイフを取り出しアルコールをぶちまけ火で炙った。
ナイフを当てた瞬間、黒豹の全身が固くなった。そのまま素早く膿を切開した。すると膿が水のように溢れた。手が水あめのようにぬちゃぬちゃとした。黒豹はうぅ、と唸り声を上げ噛ませた布を千切らんばかりに噛み締めた。
タンパク質の焼ける刺激臭に吐きそうになる。胃液が咽喉を焼く感覚が襲う。それでも傷口をガーゼで覆い包帯で巻き貴重な抗生物質を与えた。

ある日、いつもと同じように水と食料を与えると黒豹が初めて口を訊いた。

「何故、生かしたんですか?」

小さく掠れた声はこの澱んだ空気に簡単に沈んでしまった。
その科白はまるで助けたことを非難しているように聞こえる。ちらり、と黒豹を見るとこちらを見ていた。

「……あんたが反抗したからだよ」

生きることにも反抗し、死ぬことにも反抗し、この世界に反抗した。あの黒い瞳は野性的であり最も人間的あるように感じた。

「そうですか…」
そう言うと黒豹は目を閉じた。その眼がこちらに向けられなくなるととても安堵したが、それと同じくらい焦燥に駆られた。だから息を殺し、己を殺してその身体を見つめた。胸が上下してる以外はその辺に転がる躯となんら変わりは無い。一瞬でも目を瞑れば黒豹は冷たくなってしまう、頭の中をそんな考えが過ぎ去った。


翌日、テントに戻ると黒豹はいなかった。血で汚れた布は焼き払われ、黒豹が来る以前の姿にも戻っていた。血と膿の腐臭だけが黒豹がここにいた証拠だった。
もう黒豹は歩けるほどに回復していたのか。否、そんなはずは無い。ではどうして。誰かが連れて行った?いや、このテントに無断て立ち入れる者などいない。ではやはり黒豹は自分で出て行った?
考えても自分が納得できる答えは出てこない。
いや本当は黒豹が消えた理由などはどうでもよかった、ただ黒豹がここにいない、という事実に愕然としていたのだ。

何が起きても不思議ではない戦場で何故これほど動揺と焦燥そして苛立ちを感じるのか。

言いようの無い感情が、流れ出た膿のように少しずつ意識を腐食していった。