!!CAUTION!!
この話は「十二の意外な結末(A Twist in the Tale)」Jeffrey Howard Archer(著)永井淳(訳)新潮文庫の「気のおけない友達(Just Good Friends)」のパロディ・パラレルです。かなり忠実に再現してます。
Jeffrey Howard Archerのファンの方、パロディ・パラレルが苦手な方はご注意ください。





  俺は彼より先に、少し淫らな気分で目をさましたが、それをどうすることもできないことを知っていた。

La felice vita
 the first


 薄暗がりに目を慣らすようにゆっくりまばたきをした。最初に視界に入ったのは内側から破れたように広がった銃創。それは横たわったまま微動だにしない白い肌に描かれており、俺はそれをぼんやりとした頭で眺めた。
 また傷が増えている。イルカの仕事を考えればそれは仕方がないことなのかもしれないが、俺としては心が休まらない。彼が長期出張で家を空けるときなど俺はこっそりついて行こうかと真剣に考えるぐらいだ。
 イルカはごそごそと動いて、俺と向き合う格好に寝返りをうったが彼の瞼が開くことはなくだらしなく開いた口からすーすーと寝息が聞こえるだけだった。どうせイルカは俺が動いたくらいじゃ目をさまさない。彼の目を覚ますことができるのは枕元に置いてある充電器に繋がれた携帯電話ぐらいだ。少なくともこの家では。
 俺はもう一度眠ろうか、それとも起きて彼が目を覚ます前に朝食にありつこうか、しばし考えたが、それより彼の隣で横になったまま夢想を続けることの方が魅力的に思えた。そして彼が目を覚ましたときは、こっちはまだ眠っているふりをする。そうすれば彼は仕方なく俺の朝食を作ってくれる。俺は今日一日何をしようかと考えた。昨日の雲の動きと今日の空気から判断すると今日はきっと晴れ、雲ひとつない快晴だろう。昼寝は裏の樹の木陰にしよう。絶対に気持ちがいいはずだ。
 イルカは勤めから帰ってきたときに俺が家にいて出迎えるかぎり、昼間はこちらが何をしようと気にしていなかった。それは少し寂しかったけど彼らしいといえば彼らしい。もしかしたら彼は本当は他者に対する興味が人よりも薄いのかもしれない。
 俺は隣から伝わる温かな熱に自然と頬が緩んだ。他人のことを愛おしいと思ったのは彼がはじめてだった。俺は自分の中にこんなに健やかで柔らかな思いがあるなんて知らなかったし、それが枯れることを知らぬ泉のようにふつふつと湧いて出てくるものだということも知らなかった。彼の穏やかな寝顔をみつめているうちにはじめて彼と出会ったときのことを思い出した。

 俺がイルカとはじめて出会った場所は、マフェキング・ロードの角にあるパブ、《キャット・アンド・ホイッスル》だった。そこは俺たち地元の飲み屋で酒の種類が多いからみんな普段からよく利用していた。
 イルカが店に来るのは月に一、二回悪ければ二ヶ月に一回来るか来ないかで時間はバラバラだったけど夜十時以降に来ることはなかった。だから俺はいつも時計と入り口を交互に見て彼を待っていた。店に来たとき、彼はハーフ・パイントの少し重みのあるギネスを注文し、それを受け取ると店のダーツボードの奥の小さなテーブル席に腰をおろすのだった。彼はいつも独りで坐り、ダブル・トップを狙って投げられるダーツやそれぞれに自分たちの世界に浸る客を酒を呑みながらゆったりと眺めていた。
 俺はカウンターの内側という見通しの聞く場所からじっと彼を見ていた。彼の鼻の頭には一文字の傷がある。それはたいそう深い傷だったのか今でもしかっり痕が残っている。傷は彼を少し強面に見せたが一度彼が笑うと何だか愛嬌のあるものに見えた。

 しかしそんな穏やかな長く続かなかった。六月のある晩、彼はとても難しい顔をしてハーフ・パイントのギネスを毒を呷るかのような苦痛な表情で呑んでいた。そんな彼の隣のスツールに色褪せ傷んだ巻髪のブルネットの女、俺は彼女に興味が無いので知らないがここでは仮にマドレーヌとしておこう、がアイリッシュコーヒーを使ったベイリーズを片手に腰をおろした。マドレーヌは彼の耳元で毒々しい真っ赤な口紅でいくつもの言葉を囁き、彼の深爪とも思える神経質に切りそろえられた爪を持つ無骨で大きな手の上にスクエアオフに揃えられ赤いネイルカラーを塗った生白い自分の手を乗せ、妖艶な顔で彼に微笑んだ。すると彼は店に来てはじめて笑顔を見せた。それは今にも泣きそうな笑顔で俺はその場から動けなくなった。
 俺はそれまで店で彼女を見かけたことが無かったが、彼女は明らかにその界隈では知られた顔で、酒場の噂話から判断してこの関係は長くは続かないと思った。
 結局二人の関係はたった二十日間しか続かなかった。俺は一日一日指折り数えていたのでよく知ってる。ある晩激しく言い争う声、正確には金切り声で叫ぶ女の声、がして人々がそっちを向くと、マドレーヌが現れたときと同じようにするりと小さなスツールからおりた。彼女の痩せた茶色の巻毛は照明が当たると薄汚いブロンドのように光った。イルカは彼女が席を蹴ったときも驚かなかったし、あとを追うこともなく、彼の黒い疲れたような視線は終始口をつけられることのないハーフ・パイントのギネスの泡に注がれていた。
 彼女の退場は俺の登場の合図だった。
 俺はカウンターの内側からほとんど飛びださんばかりに、でもはしたなくない程度にできるだけ急ぎ、数秒後には彼の隣の空いたスツールに坐った。彼は一言も話しかけなかったし、もちろん一杯どうだともすすめることはなかった。一気にギネスを飲み干し静かにグラス置いたとき、彼は少しだけちらりと俺をみた。その瞳には俺に対する不信感も不快感もなく、ただ暗い静かな海のような色を湛えていた。刹那、俺はその場に縫い付けられた。それは彼の視線が俺だけに注がれていたということもあるが、あのような暗く悲しい目を見たのははじめてだったからだ。
 俺は周囲を見回してこの俺の地位を奪おうとするものがいないか様子を見た。ダーツボードの周りに立っている男たちは気にもとめていないようで、熱心にダーツに興じていた。カウンターの方に視線を向けてボスが俺がいなくなったことに気づいているか様子を見たが、彼は注文を受けるのに忙しかった。
 俺はイルカの顔を見た。彼はめったに店に現れないし、あまり他人と話さないので彼の名前を知ることができたときはとても嬉しかった。何度も何度も舌の上で彼の名前を転がしその響きと甘さを楽しんだ。彼はきっと俺の名前は知らないだろう。そしてこちらが名前を知っていることも知らないだろう。本当は名前で呼びたかったが(彼にとっては)初対面の人間に名前を知られているという不快感を与えたくなくて俺は静かに坐っていた。ときどき思い出したかのようにこちらを見る彼に俺は自分のもつ最高の笑顔を送った。少々怪しかったかもしれないが、それで彼の優しい穏やかな微笑を引きだすことができたのだから何も言うことはない。
 パブのオーナーが「ラスト・オーダーです」と叫ぶと、イルカは席を立った。
 俺たちが連れだって店から出て行くのを、誰も何も言わなかったし、俺がイルカのタウンハウス型のアパートメントまでついて行っても、彼は抗議しなかった。
 俺の唯一の気がかりは彼がいつも何かを捜し求めて、心ここに在らずといったような表情で思い悩んでいることだった。俺はそれが本能的にマドレーヌのことだと分かった。俺は彼にそれほどまで思われるあの女が憎らしくもあり、羨ましかった。あの女は俺が欲しいものすべてを持っていた。俺があの女に勝てるとしたらものは父親から受け継いだ人から唯一人から褒められるこのプラチナブロンドくらいだろう。だが実際のところ、どこの馬の骨とも知れない経歴はあの女も俺も五十歩百歩だろうから、俺には彼女を悪くいう資格はない。

 これらすべては一年以上も前の出来事で、俺はイルカへの限り無い献身の証としてそれ以来《キャット・アンド・ホイッスル》には一歩も踏み入れていない。彼が俺の前でマドレーヌの名前―俺は彼女の正確な名前を知らないので例え彼が口に出したとしても分からないのだが―を一度も出さないところを見ると、彼女のことはすっかり忘れてしまったようである。彼は俺の過去についてまったくなにもたずねない。きっと興味がないのだろうけど、俺としては知っておいてほしかった。
 でもまぁ、それも今となってはどうでもいいことのような気がする。



La felice vita (the latter)