Mors sine musis vita.

 2.くちなしの歌姫

セラスが廃城で不可思議な夜会に饗された同時刻、
大英帝国王立国教騎士団局長・インテグラル・ファルブルケ・ウィンゲーツ・ヘルシングは、秀麗な顔に苛立ちをあらわにしていた。
「局長、駄目だ。この濃霧じゃ1ヤード先だって碌に見えやしねぇ」
「だろうな」
ノックもせずに入ってきた傭兵隊長の報告にインテグラは更に眉を寄せたまま紫煙を吐き出した。

去る2時間前、敬虔なキリスト教徒が住む小さな村で、村民の半数が惨殺されているとの一報を受けたインテグラはヘルシング機関員と傭兵部隊を率いてバーミンガム近郊のとある村に訪れていた。
殺害された村民の一部が喰屍鬼となっていたが、攻撃機関員たるセラス・ヴィクトリアと傭兵部隊の攻撃支援により喰屍鬼含め母体の吸血鬼は完全に始末される予定だった。
しかし現実は喰屍鬼は全滅するも母体の吸血鬼が逃走。
インテグラの制止を聞かず間髪いれずにセラスが敵の追撃に向った。
追って傭兵達がサポートとして出発しようとしたが、セラスが飛び出してから5分も立たないうちに濃い霧が発生。
村は瞬く間に濃霧に包まれ、村内を歩くことすら困難な状態となった。
インテグラは体制を立て直すため、一度村長の館に傭兵部隊を招集し、セラスの追跡を試行させた。その結果が先ほどの報告だった。
「アーカードはどうした」
「俺らが呼べど叫べどぜんぜん姿をみせてくれませんよ」
ベルナドットはお手上げとばかりに肩を窄めた。
「くそっ、あの穀潰し。血液パックの量減らしてやる」
「喰った分は仕事しているのに減らされるのは心外だな」
黒い影が閉じられた扉をくぐりそれは悠然とあらわれた。ヘルシング機関の鬼札・アーカード。深々と帽子を被り視界をサングラスで覆う彼の表情を伺い知ることができる口元はにやにやと歪められている。
インテグラは苦虫を噛み潰したような顔で、ベルナドットは驚き呆気にとられた顔でアーカードを見た。
「どこにいた」
「好い月が出ていたので、読書しながら散歩していたのだよ」
「喰屍鬼の村をか」
肯定とばかりにアーカードの口端が弧を深めた。
インテグラは苛立つ神経を押さえるかの様に一段低い声を出す。
「何を読んでいた」
「この村の郷土史だ。暇つぶしにもならないほど詰まらない」
そういうとテーブルに読んでいた古書を放り投げた。
「バカ!んなもん読んでる暇があったらセラスをみつけてこいっ!」
「婦警を?何故だ?」
「爆発に巻き込まれた身体のまま飛び出したんだ、途中で動けないでいるかもしれないだろ」
「爆発直後から動けるなら大した怪我はしてない。あれも一応吸血鬼だ」
まぁ下級の下級だがな、といって嗤った。
「それに今は追試の最中だ」
「は?」
「本試験が落第だったから追試験中を実施しているのだよ」
インテグラは大きく息を吸った。ちりりと葉巻が燃える。高ぶる神経を抑え状況を整理することだけに脳を集中させる。
まずアーカードは今回の作戦に一切関るつもりはない、そう言っている。それが主人(インテグラ)の命令であってもだ。
次に“試験”の言葉をそのまま受け取るならば、セラスの作戦遂行能力を若しくは吸血鬼としての実力を確認していると考えられる。
そして“本試験”は母体の吸血鬼を取り逃がした時点で“落第”したが、現在“追試”を実施している最中と目の前の吸血鬼は言った。
つまりセラスは生きており、敵と交戦中若しくは交戦直前とみていいただろう。
「じゃあ監督者として責任があるだろ。とっとと試験会場に行け」
「今回は回答過程はどうでもいいのだよ。答案用紙に正解があればそれでいい」
「あーもう、わかった好きにしろ!ただし必ずセラスから今回の報告をさせろ、以上だ」
何を言っても無駄だとインテグラは諦めた。大きく手を振り、消えろとアーカードに命じる。
アーカードは薄ら笑いを浮かべながら影に溶けた。テーブルには彼の持っていた本が残されている。
「それ、なんか今回の事件と関係あるんすか?」
ベルナドットは、アーカードの残した本を指さした。
「・・・事件によってはその土地や歴史を知る必要もあるが、今回は明らかに一連の殺しの流れだ。あの殺し方は在来のものの仕業ではなく、今までと同様の手の者によって企てられたものと考えていい。故に村の歴史と今回の事件の相関関係は低い」
インテグラは漫然とれを手に取りぱらぱらと捲りながら答えた。
「んじゃ何で旦那はんなもん読んでたんですかね?」
「知るか。確かに私は奴の主人だが、吸血鬼(やつ)の思考を理解できたことなど一度もない」
言うとインテグラは本を閉じた。

羊皮紙に書かれた古書には、吸血鬼に関連する事柄はなかった。
村の成立は古く、昔はもっと大きな街であったこと。
数エーカー先には防衛要塞があったこと。
美しい歌声を持つ姫君がいたが、頸を刎ねられたこと。
そんな至って普通のどこにでもあるような物語しかなかった。


* * *


夜会は突然了った。
着飾った人々も美しい弦の旋律も消えた。歌姫の声は最初のように小さくか細いものに変わった。
皓々と明るかった室内は、暗く湿った陰気な部屋になった。むき出しの石壁には、打ち果てたタペストリーがかかっている。
セラスには何が起きたか分からなかった。
呆然と目の前の暗い空間に先ほどみた光景を反芻する。触れられない美しく着飾った人々、交わることのできない楽しげな会話、唐突に始まった荘厳な旋律、すべてを魅了した軽やかで美しい優しい流麗な歌姫の歌声。
最後に見た怪しげな男女の陰湿な笑みを思い出すと、ぶるりと震えた。
振り返ると扉が開いていた。正確にはかつて扉だったものの残骸が残っているだけだった。扉の向こうには暗い廊下が広がっている。
セラスは再び歩き出した。

か細い歌声が響く廊下一人歩く。
雨は依然として強く吹き付けているようだ。時々湿った隙間風がセラスの肌を嘗めてゆく。
セラスは背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
この事態は本当に危険なのかもしれない。マスターの言う通り私はもう幽霊に捕えられているのかもしれない。
吸血鬼の瞳でも捕らえられない正体とは何だろうか。考えれば考えるほど怖い。怖いならばあの部屋でじっと過ごしていればよかったのだ。
しかし部屋を出てしまった。声の正体が知りたかったから。この歌声の持ち主が歌う、本当の歌を聴きたかったから。そう思考すること自体が幽霊の思惑通りなのかもしれない。それでも聴いてみたい。そう思わせられているとしても、思っているのは確かに私自身だ。
そして最後に見たあの二人。あれは危険だ。きっと彼女に害を与えるに違いない。だから何とか彼女に危険が迫っていることを伝えなければ―――
歌が途切れた。
「え?」
驚きに顔を上げればそこはもう別の部屋となっていた。
優しい甘やかな香りが室内を包んでいる。
天蓋付きの寝台、薄い絹繻子の向こうには一人の女が横たわっていた。
室内を照らす蝋燭の火は小さく、女の顔はよく見えない。ただ、寝台横に置かれた梔子の花が薄ぼんやりと浮かび上がっている。
女は眠っている、だから歌声が聴こえないのだろう。少し寂しいが彼女の眠りが穏やかなものであればいいとセラスは思った。
もう少し近づいてみようと一歩踏み出そうとしたとき、扉が開いた。
中に入ってきたのは一組の男女。先ほどの夜会でみた歌姫の旋律を乱した毒そのものだった。
女がもつ燭台の炎は男女の姿を大きく伸ばし壁に巨大な影を描いた。口は裂けて残酷な笑みが浮かんでいる。
彼らはそろりそろりと寝台に近づく。
男の指が眠る歌姫の頬を、首筋を撫でてゆく。卑しく浅ましい手付き、まるで彼女を嬲り者にでもするような貪婪な顔に身の毛が弥立つような悪寒が走る。
その手を振り払おうとセラスは腕を伸ばすが、身体が縛られたかのように動かない。
残る女は男の存在など知らぬ顔で、懐から硝子の小瓶を取り出した。薄い琥珀色の液体が壜中で揺れている。毒だ、とセラスは直感した。
女は寝台横のチェストに置かれた水差し瓶に数滴落とした。薄色の毒は水と混じり溶けていった。完全に溶けたこと確認すると女は寝台に横たわる歌姫に声をかける。男は一歩下がり、暗闇に紛れた。
女が優しい手つきで歌姫の身体を揺する。
すると歌姫が目覚めた。上体を起こし、女に何か話しかけている。
女は何食わぬ顔で毒入りの水差しからグラスに水を注ぎ彼女に渡す。
―――嗚呼、駄目っ。それを飲んではいけない!
セラスの声は届かない。
歌姫は女が差し出したグラスを何の疑いもなく受け取り、呷った。

暗転。

目の前が急に暗くなったかと思えば、石牢の中にいた。黴臭く重い空気が肌を覆い、牢外の松明の炎がぼんやりと牢内を照らす。
薄暗い石牢の中、歌姫は歌っている。
雪のように白い衣を着て椅子に腰かけていた。長い裾が足元に留まっている。
手にしているのは梔子の花。甘やかな香りが暗鬱とした牢屋に広がる。
弱く掠れた声がぽつりぽつりと牢内に落ちる。かつての美しい歌声はもう出ない。毒が彼女から美声を奪ったのだから。
それでも彼女は歌っている。声を奪われてもなお歌おうとする。
一体彼女はどんな顔で歌っているのか。
しかし彼女の顔は靄がかかったかのように判然としない。
やがて一人の神父と目出し帽を被った屈強な男が二人入ってきた。神父は聖書を、男は大斧を手にしている。
神父が何か問いかけている、それに対し歌姫はただ首を横に振るだけだった。
一人の男が姫の目元を白い布で覆った。もう一人は藁を敷き断頭台を牢内に準備していた。
歌姫は震えを抑えようと梔子の花を握り締めた。白い花びらが一枚落ちた。
神父が聖書を読み上げる。無機質な声が一節を機械的に読み上げ、終わった。
首切り役が斧を振り上げた。
冷酷な刃が彼女の頸を無慈悲に刎ねる。
白い花弁が赤く染まり、床に落ちた。

セラスは無我夢中で走っていた。
目を閉じれば薨去の瞬間が蘇る。振り下ろされる刃の冷たさ、頸に食い込む刃の重み、一瞬にも永遠にも思える痛み、既知の感覚に嘔吐した。
歌が聞こえる。さき程よりもずっと小さく掠れた声。
唇を噛締め、震える腕を抱きしめ、セラスは小さく蹲った。
ふと、鼻先を何かが掠めた。
歌姫が最期まで握りしていた花。芳醇な香を湛える梔子の白い花。その香がセラスの鼻を優しく擽る。
セラスは震える膝を叱咤し馨しい香りに導かれるように歩を進めた。

目が眩むような香りの回廊の先に彼女はいた。
雨は止んでいた。青白い月がうす雲の隙間から見えている。
鮮やかな緑の芝、庭の中心には梔子の垣根。歌姫は梔子の前に一人佇んでいる。
頸を刎ねれた時と同じ真っ白な衣。長く牽く裾の影に潜む死の感覚。頸の創痕から滴るのは幻覚の血。
しかし、やはり顔が見えない。
「貴女が私を呼んだの?」
セラスは彼女に歩み寄った。
匂いたつのは梔子の香。近づくたびに強くなり、鎖の様に纏わりつき離れない。
「何を歌っているの?」
セラスは歌姫に手を伸ばした。二人の白い指先が合わせ鏡のようにぴたり、と重なった。
掌から伝わるのは一体何か。
旋律
調べ
鼓動


歌姫の顔が見えた。
「どうして、そんな姿になっても貴女は歌うの?」
セラスの問い掛けに、歌姫はセラスと同じ顔で可憐に微笑した。