Mors sine musis vita.
1.雨夜の賓客
アーカードは中間試験だ、と言って影に融けた。
ヘルシング家当主、インテグラル・ファルブルケ・ウィンゲーツ・ヘルシングは秀麗な顔を歪め、罵詈雑言を並べ立てたが、気まぐれなセラスの主人は意にも介さず姿も影も見せなかった。
憤然とするインテグラを宥めながらセラスが訪れたのは小さな村だった。吸血鬼に襲われた小さな村。まるでチェダース村のようだ、と思った。
通常は主力攻撃役をアーカードが、支援攻撃をセラスが担っているが、今回は主力をセラスが支援を傭兵部隊が担当することなった。
セラスは自分で分かる範囲の敵の数や位置をベルナドットに伝えた。傭兵部隊はベルナドットの指示に従い展開した。
順調だった。
当初決めた通りに作戦は進んだ。
しかし、大人を屍喰鬼にして子を襲わせる。そんな糞に愉快を見出す下衆を目の前にしてセラスの怒りは一瞬で沸点に達した。
吐き気のするような村の惨状は忘れる事ができないあの夜を彷彿とさせた。
銃口は絶え間なく火を噴き、拉げた頭部が飛ぶ。腕を薙ぎ、血と臓物を撒き散らし、転がる足を踏み潰しながら母体の吸血鬼を探す。
死屍累々を築く自分に後方の傭兵部隊たちが戦慄しているのを感じて心臓が引き絞られるようだった。
しかし母体である吸血鬼を見つけ瞬間にそんな苦しさは吹き飛んだ。
殺す、その一念が敵の頸にが届く一寸先
――――閃光と爆音
それは愚劣な浅知恵にすぎなかった。
しかし下劣な小物の愚考だが、愚考に愚考を重ねただけあって一瞬の隙を見定め村の包囲網を脱出した。
吸血鬼と人間の身体能力は大きく異なる。頑強な身体をもつ吸血鬼は、その僅かな時間で距離を稼ぐことができる。
セラスは爆風に崩れる体勢を叱咤し、瞬時に後を追った。無線からインテグラの制止命令が飛ぶがセラスの足は止まらなかった。
爆弾に仕込まれた銀の針はセラスの身体を焼いた。燃えるような痛みに頭の片隅で、深追いは禁物だと判断するも逃げる吸血鬼を狩らずにはいられなかった。
幾ばくもなく件の吸血鬼は塵に還った。セラスは苦虫を噛み潰しながら塵滓の終わりを見届けた。
そこで終わればよかった。そうすれば唯の任務で終えることができた。
ぽつり。
セラスの肩を叩いたのは小さな雨粒。それは新米吸血鬼には毒以外の何物でもなかった。
きっと、5分もしないうちにスコールがくる。
半吸血鬼でなくても感じ取れるほどの湿った空気。逆上せ上っていたからといってもこの空気に気づかないとは、我ながら情けない。
「またマスターに冷笑されるだろうなぁ・・・インテグラ様もきっとお怒りだろうだなぁ・・・」
村を飛び出す際に聞いたインテグラの怒号を思い出しため息をついた。
説教を甘受するのは吝かでもないが、今から村に帰るには少し遅い。きっと辿り着くより先に降られて襤褸雑巾の如き状態になって動けない間に朝日とおはようするに違いない。そんなことになればお説教どころではない。
あたりを見渡せば数マイル先にこんもりと小さな森が広がっていた。その暗い森の中心に錆びれた城が建っている。本気で走れば1分だろう、と目算を立てるとセラスは駆け出した。
その古城は城門こそ崩れ落ちていたが、一晩雨を凌ぐには十分な堅牢性を有していた。
室内装飾はほとんどなく石壁が剥き出しで質実剛健な造りだった。採光窓は小さく雨風はあまり吹き込んでこないが、所々雨漏りしている。
セラスは比較的雨漏りのしない部屋をみつけると、城に残る廃家具を壊して薪にした。炎々と燃える暖炉の暖かさよりも、乾いた空気に安堵した。
爆発に仕込まれた銀針はセラスの左胸から肩にかけて裂傷を残したが、幸い祝福儀礼が施された武器ではなかったのであと2時間もすれば跡形もなく塞がるだろう。
身体が石のように重いが疲労というより、雨のせいだ。人間だって雨の日は倦怠になるものだ。
装備は小銃、ナイフが一丁。弾薬は応戦するには心許無い数だ。こんな所に吸血鬼狩りをしにくるものはいないだろうが、ハルコンネンを置いてきたことが今更ながら悔やまれる。
腰につけた無線機は沈黙している。無理だろうな、と思いながらも諦めきれず無線電源をいれてみる。
案の定ざ、ざーーーっっとノイズ音を発するだけだった。
溜息をつくと、目を閉じ意識を集中させた。城内に反響しているのだろう、雨音がよく聞こえる。外の音と匂いを拾う。一過性のスコールだろうと思っていたが、これは強くなる一方だ。
おそらく雨が止むのは早くて明け方、遅ければ午前中降り続けるだろう・・・。一昼夜ここで過ごさなければないかもしれない。この城には地下室はあるだろうか。地下でなくとも太陽の光が届かないところならどこでもいいのだが。
暖炉の火がぱちぱちと鳴る。温かな火が肌を柔らかく嘗める。
疲労と緊張が緩やかに解けてゆく。雨音が優しく誘う。
うつら、うつらと夢に入る。
歌が聞こえる気がする。夢の歌。春宵の彼方で妖精が歌っているのか。耳を欹ててみるとたしかに誰かが歌っている。でも詞はわからない。
どこから聞こえるのだろうか。靄の中に沈む蜘蛛の銀糸の様な細く美しい旋律を捕まえようと追いかける。上へ、下へ。誘われるがままに追いかける。
かたん
眼が醒めた。暖炉の薪が炭化して折れている。
夢?
違う。歌はまだ聞こえる。今にも消えそうな小さな小さな声。
そんなはずはない。
この廃城に生命あるものはいない。
ゆっくりと息を吸い、細く静かに吐き出す。掌を握り閉める。
セラスは立ち上がり扉へと歩き出した。
* * *
石壁を叩きつける雨音は激しく、隙間風は氷の様に冷たい。明かり一つない暗闇をセラスは歩く。
雨水が壁伝いに滴り水溜りを作っている。歌はまだ聞こえる。
セラスは歩きながら主人の言葉を思い出していた。
―――半人、半吸血鬼の半端者。幽霊<ゴースト>とは口を聞くな
そう厳命した主人の眸は背筋が凍りつくほど冷ややかだった。
半人、半吸血の半端者。決して人間には戻れない、だが吸血鬼にも成りきれていない。
存在の不安定さは幽霊たちを呼び寄せる。怨恨と呪詛に亡き身を焦がす彼らはいつだって身体を欲している。そう、半端者(セラス)は格好の獲物だ。
生命あるもの、肉体をもつものはこの城にいない。それはセラスの感覚器官が確かと告げている。
しかし彼女の鼓膜を震わせるこの小さな歌も確かに存在している。
音の源に近づくこと、いやきっと興味を覚えることすら主人の命に逆らう事になる。
石畳の廊下の奥、一筋の明かりが漏れている。
重厚な扉の隙間から差し込むそれはセラスを誘っているようにもみえる。頭の奥で警告音が鳴っているがそれを無視してセラスは扉を開けた。
眩しさに目が眩んだ。
夜を追い立てるように煌々と輝く蝋燭の炎。しかしそれ以上にセラスが驚いたのは広間を埋め尽くすほどの人の数。
男女ともに綺羅を纏い、豪奢に着飾りたてている。グラスや扇子片手に談笑するそれはまさしく華やかな夜会。
ここは廃城だ。生命あるものは一人もいない。しかし目の前では、楽しそうに杯を交わす人々。
「どういうこと・・・?」
セラスはそっと彼らに近づいた。
しかし、誰もセラスに気づかない。それどころか彼女の身体をすり抜け穏やかに夜を楽しんでいる。
セラスは試しに給仕人の配るグラスに手を伸ばした。だがグラスは軽やかにすり抜けていった。
「あの、すみません」
貴婦人に話しかけるが、彼女は見向きもしない。
幻覚かもしれない、セラスは考えた。
人間の瞳ではなく吸血鬼の瞳でみようと目を閉じた。
暗い闇の中にある心の一つ瞳、その目を開き見た先にもやはり同じ光景が広がっていた。
幻覚ではない、少なくとも自分で見破れるような幻覚ではない。
見ることはできるが、触れることも言葉を交わすこともできない。理由は分からないが、ここは"そういう場"なのだろう、とセラスは解釈した。
主人ならば分かるのだろうが、半人前の彼女にはその理由は分からなかった。
幸い歌はまだ聞こえる。相変わらず細く小さな声だが目の前の夜会の賑わいの中にあっても変わらずに響いている。
ひとまずここを出よう、セラスは扉に手をかけた。
「え?」
しかし扉はまったく動かない。
押せど引けども動じない。少し力をこめて叩いてもびくともしない。
閉じ込められた、一抹の不安が過ぎる。
破壊するしかない、そう決め腕に力を入れた、刹那
弦の音が響いた。
振り返ると壇上に誰かが立っている。
滑らかな弦の音に誘われるようにして響いたのは透き通るような歌声。
それはまさしく先ほどからセラスの心を捉えて放さない歌声だった。
舞台に立つ者の姿ははっきりと見えないが、美しい容貌であることは間違いない。
白く細い指先が淡く光り音を揺らし、流麗な歌声は澄んだ水の様に広間を流れてゆく。人々の喧騒は消え、セラスも含め誰もが彼女の美声に酔いしれていた。
そこに混ざる小さな不協和音。苦いその音は、歌姫の透明な歌声を毒を流し込むように黒く濁らせていた。
セラスは自然とその雑音の源を追った。歌姫の声に浸る人々の中、薄ら笑いを浮かべる一組の男女がいた。
男の貪婪たる顔と女の憎悪に燃える瞳にセラスは粟立った。