彼女は口付け、こくり、と飲み干した。
白薔薇の朝露
「は?」
「婦警は目を覚まさない。少なくともあと2日は無理だな」
大英帝国王立国境騎士団長は自分の下僕の言葉に苛立った。
任務命令を出すために呼びつけたにも関わらず、目の前に現れたのは1名だけ。しかも話の道筋がまったく見えない。
葉巻の灰を落とすともう少し判るように話せ、と促した。
「どうやら薔薇の雫を飲んだようだ」
自然界には儀礼儀式を施さなくても聖なる力を宿る物や場がある。しかし朝日に祝福された白薔薇の朝露に吸血鬼を昏睡させるほどの力があるだろうか。
「そんなものでお前たち(吸血鬼)を眠らせられるのか?」
「残念だが、そんなことはできない」
「じゃあ何故、セラスは目を覚まさない」
「あれはひどく白薔薇に執心しているからな」
アーカードは嘲笑い、先日の薔薇園での事を思い出した。それは淫靡で扇情的な出来事。
「意味がわからん」
インテグラは葉巻を灰皿に押しつぶした。
「ひとまずお前は標的を片付けて来い。セラスはその後だ」
「Yes, my master」
アーカードは慇懃無礼に頭を下げると影闇に消えた。
* * *
柩の蓋を開けた瞬間、地下室の中に広がったのは芳醇で馨しい香り。
インテグラは紫煙を燻らせ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「薔薇、か・・・」
柩のなかには女吸血鬼が眠っていた。
美しい金色の髪、陶磁器のような白い肌、緋色の唇、柔らかな白絹のネグリジェに身を包み、ただ眠っているだけにも関わらずその姿は、見るものを魅了する。到底死人にも化物にも見えなかった。
「本当に眠っているだけなのか?」
インテグラは確認するかのようにアーカードをみた。吸血鬼はただ嗤っているだけだ。
疑うなら自分で確かめろ、ということだろう。
横たわるセラスの肩を揺するが何の反応もない。それよりも屍の冷たさがインテグラの心臓を掴んだ。
「セラス、セラス、起きろセラス・ヴィクトリア!」
ぱんっと、頬を叩く。青白い頬に赤薔薇が咲いた。
しかし、セラスは目覚めない。
「ウォルター」
「はい、お嬢さま」
老執事が差し出したのは天鵞絨の包まれた銀の拳銃。彼女はそれを手に取ると迷いもなくセラスの肩を撃ち抜いた。
ガゥンッ!
鮮血が純白のネグリジェを穢す。じゅっ、と音がして皮膚が焼け爛れはじめる。肉が焦げると薔薇の香りがいっそう強くなった。
「祝福儀礼が施された銃か」
「低級の吸血鬼なら一瞬で塵にできる。さすがはお前の眷属といったところか」
しかし、セラスは目を覚まさない。身を焼く様な生命の危機に晒されても、セラスは苦悶の呻きもあげず眠っている。
いかに不死王の眷属といえど、セラスはほんの数ヶ月前になったばかりの新米吸血鬼で、しかも血が飲めない半人前。これだけの深度に達する傷であれば絶叫をあげるはず。
爛れた皮膚は再生を始めているがそのスピードは遅々としている。奥に留まった銀弾が身を焼き続けているのだろう。赤黒い肉の奥に血塗られた骨が見えた。
「アーカード、これはヴァチカンによる攻撃か?」
「No.」
「では別の勢力によるものか?」
「No.」
「薔薇の朝露を飲んだからだとお前はいったな。それは吸血鬼に共通する事象か?」
「No.」
「・・・セラス固有の事象か?」
「Yes.」
インテグラはじっとセラスを見詰めた。
薔薇の雫で眠る乙女。なんと感傷的で耽美な物語か。噎せ返る様な薔薇の香りを纏い人形のように横たわり、ただそこに存在しているだけ。
微笑うことも、怒ることも、泣くことも、弱音を吐くことも、苦しむことも、耐えることも、踏破することもなく、一切を打ち捨てた傀儡。
インテグラは息を深くゆっくり吸い込んだ。ちりちりと静かに葉巻が燃える。
「とっと起こせ」
「放って置けば目を覚ます」
アーカードの言葉にインテグラは眉に深い皴を寄せた。
吸血鬼は嗤っている。無意味な遊戯を愉しむ残虐な王の嗤い。
「それに、これは面白い標本だろう」
暗い眸に映るのは静かに横たわる白き乙女。永遠に玩ばれる不死の玩具。
「我々、ヘルシング家が知りたいのはお前ら吸血鬼を確実に殺せる方法だ。特定個体の固有事象には興味ない。とっとと起こして一匹でも多く屠れる様に訓練しろっ!」
吐き捨てるように言うと踵を返し、地下室を出た。
「ウォルター。薔薇園を潰せ」
「よろしいのですか。あれは奥様が大事にされていましたが」
「構わん」
「かしこまりました。一両日中に処分いたします」
* * *
「くくく。当主は甚くご立腹のようだ」
アーカードはセラスの柔らかな頬を撫でた。手套越しに伝わるのは冷たい屍人の温度。
馨しい薔薇の香りはまだ彼女を捕らえて離さない。
口唇を寄せる。髪に、額に、顳に、瞼に、鼻梁に、耳に、頬に、咽喉に、首筋に、胸に。全てが闇で汚され穢されてゆく。
インテグラが撃った肩口は銀に爛れる腐臭がする。黒霧が彼女の傷口にしゅるしゅると入り込み、留まっている弾丸を取り出した。ひしゃげた弾は砂礫の様に砕け散った。
深緋の血がどくどくと流れる。アーカードは銀に毒された血を舐めた。びちゃりびりゃりと淫靡な音が地下室に木霊する。
黒霧がセラスの肌を舐める。爪先を、足甲を、臑を、腿を、腰を、腹を、指先を、手甲を、手首を、掌を。一つ残らず亡霊が病み犯してゆく。
もう無垢な白を護るものはなにもない。
「早く目を覚まさないとお気に入りの薔薇がなくなるぞ」
滑らかな首筋に冷酷な牙が突き刺さった。