それは遠い遠い昔。もう帰れない園のずっと奥深くに潜む酷薄な思い出。
セラスがまだ人間のとき、愛する両親に囲まれ幸福に満ちた生活を送っていたときの小さな記憶。


夢の薔薇


青い空は澄み渡り、白い雲がぽつりぽつりと浮かんでいる。チチチ、とどこかで小鳥が囀ると柔らかな風がセラスの頬を撫でた。
これは夢だ、とセラスは感じた。
一歩踏み出すと柔らかな芝生がさくりと音をたてた。
懐かしい赤煉瓦の壁、汚れて所々黒くなっている。触れるとひんやりと冷たい。
開け放たれた窓から白いレースがふわり、と揺れている。手招くようなその動きに、そっと部屋を覗くが中には誰もいなかった。
暗く静かな部屋には木製のダイニングテーブルが一つ。テーブルの上には空の花瓶と写真立てが置かれていた。硝子の花瓶がきらり、と光を反射する。
小さいときは大きく感じたテーブルは、今みると不思議と大きいとは感じない。

不意に、懐かしい匂いがした。甘く、華やかな香りに息苦しさを覚える。

セラスセラス、と呼ぶ声。

もう聞くことができない声。ずっと望んで待ち続けた声。胸が苦しい。もう動かない心臓が締め付けられる。
セラスは声の呼ぶ方へと歩き出す。
一歩。また一歩。
あと少し、その角を曲がったその先。

母がいた。
記憶のままの美しい姿で優しく微笑んでいる。白く艶やかな肌、赤い唇、日の光を受けた金髪が柔らかに輝く。
お母さん、と呼びたかった。でも声がでない。
母のたおやかな指先が白い薔薇を撫でる。繊細な硝子細工を扱うようにそっと優しく。
重なる花弁は一枚一枚が透き通ったような白さを湛えている。優雅に、甘く静かに香る。
この薔薇はセラスが生まれた年に植えたの。貴女の薔薇よ、と母が微笑む。


ああ、母は傍にいたんだ


真っ暗な棺のなかでセラスは泣いた。だが、涙は流れない。嗚咽も漏れない。
ただただ胸を震わせ、懐かしい夢の香りを深く吸い込む。
もう寂しくない。