「あれ、カカシさん。今から任務ですか?」
 扉を開けたイルカは荷物の最終確認をしているカカシの姿を見るとそう言った。斜めがけの鞄を下しベストを脱ぐと、今日の夕餉と思しきスーパーの袋を卓袱台の上に置く。
「人手が無いって急遽入ってね。たぶん一週間くらいで戻れると思う」
「一週間ですか」
 イルカは磨かれたクナイの束が仕舞われるのを視界の端に止めながら袋から缶ビールを取り出した。プルタブを指をかけ開ける。ぷしゅ、と景気のよい音がした。隣から送られてくるのじとりと重い視線を無視し、勢いよく胃の中に明日への活力を流し込む。日に焼けていない白い咽喉が上下に動く、よく動く、よく動いて美しい首筋のラインが見えたかと思うと、
「っぷはぁぁーーー!生き返るぅーーー!!」
 350ml缶をいっきに飲みきった。
 口の端から零れた液を袖口で無造作に拭う。この瞬間のために今日一日を耐え抜きましたといわんばかりの至福の顔。
 午前中は天使の顔した悪魔たちに振り回され、午後は傍若無人な権力者を宥めすかし、横暴な依頼主に媚び諂い、神経と堪忍袋の緒をすり減らしながら業務を爽やかな笑顔でこなした。おかげさまで本日分の営業スマイルは全て売り切れ在庫なし。完売御礼状態である。それでもまだ笑えというなら労働基準法違反で裁判所に訴えなくてはならない。
「恋人が過酷な任務に出るっていうのに何故そんなもの飲みますかね?」
「ここ俺の家ですよ。俺が何しようと勝手…つか、他人の家から任務に出る方がありえないじゃないですか」
「ま、俺と先生の仲ですからね」
 "恋人"という部分を否定されなかったからか余裕の笑みでイルカの抗議を綺麗さっぱり無視して兵糧丸を内ポケットに詰める。
 だが、相手は強かった。
「ただの家主と居候ですけどね!」
 にこりーん、と笑うこの笑顔は悪意全開のイルカスマイル。爽やかさゼロ。苦味100%の極上スマイルである。それははるか過去の記憶の奥底に封じ込めた惨劇甘くほろ苦い思い出を彷彿とさせる邪悪なもの。
 背中を伝う冷たい汗にカカシは、今日も大変だったんだなァ…と悟った。
 しかし!
 訂正すべき部分は主張せねばならない。
「せめて同棲と言ってください!」
 口布を上げ額宛で半分顔を隠した胡散臭さなら木の葉一wwwの状態でお互いの鼻先が触れるまでずいずいっと迫るも
「千歩譲ってヒモですね」
 容赦なく斬って捨てられた。
「それ降格じゃないですか!」
 叫ぶカカシを他所にイルカはスーパーの袋から茶色の紙袋に包まれた何かを取り出す。ふんわりと甘い香りが部屋に漂る。
 茶色の包み紙をがさがさ、と包みを開けるとこんがりキツネ色のたい焼きが三尾鎮座している。丸々と膨らんだ腹に中身がぎっしり詰まっていることが伺える。イルカの瞳が狂喜に光る。
「まま、同じようなもんです」
 イルカはカカシへの返事をおざなりにすると「いっただっきまーす」と頭からたい焼きにかぶりついた。
 至福の喜びをかみ締めるイルカ。
 その笑顔をうっとりと右眼に焼き付けるカカシ。
 両人それぞれが陶酔の世界に浸るも、すぐに
「この件については帰ってきたらじっくり話し合った方がいいです」
 カカシはなにやら神妙な面持ちで今後の二人の未来を憂う。
 それを呆れた目で見ながらイルカは二尾目に手を伸ばす。キツネ色の魚は小豆色の身を散らしながらイルカの口の中へ頭から順に消えてゆく。
「ふぇふろんもうでてまふけどね(結論もう出てますけどね)」
 左手で口元を覆いながらもごもごと喋るイルカ。もはや何を言っているのかさっぱり分からない。分からないことをいいことにカカシの脳内では特殊変換が行なわれ、
「寂しいかもしれませんけど、すぐに帰ってきますから」
 唯一見える右眼にきらりと光る涙を浮かべイルカの手を握りしめた。背景には点描の光の輪が輝いている。迫真の胡散臭い演技もここまでくると抒情詩のごとき雰囲気を漂わせている。
 何も言えないイルカ。二尾も口の中にいるのだから。
 それをいいことにカカシは胡散臭い笑みを湛えながら「浮気しないで待っててね」とイルカの口端についていた餡子を舐め取った。
 突拍子も無いカカシの行動にイルカは頬を赤く染めわなわなと震えだした。黒い瞳は今すぐにありったけの罵詈雑言を浴びせてやりたいと焔に凍えている。いや、本当は口で直接罵りたいのだが、幼いときより母から教えられた「口の中に物を入れているときに喋ってはいけません」という厳格な食事ルールが行動を阻んでいる、のではなく単純にたい焼きが口の中を占領しているため話せないのだ。だから彼はリスの頬袋のように膨らんだ頬をふごふごと動かし、マッハでたい焼きを咀嚼する。途中、咽喉でつまり苦しさに涙を浮かべた。が、それも何とかごくり、と飲み込むと、キッとカカシを睨みつけた。
 そして、思いつく限りの悪口雑言を叫び倒そうと口を開いて

 奇妙な沈黙
 そして、神妙な表情で俯くと
「あんまり遅いとするかもしれません……」

「浮気」

「うそっ!!!」
 驚き焦るカカシ。
「うそです」
「はぁ〜」
「と、いうのが嘘」
「ええ!!」
「と、いうのは冗談で」
「すっげ心臓に悪い」
「あはは」
 心臓に手を当てながら焦るカカシを横目にイルカは最後のたい焼きに手を伸ばす。
「まぁ、でもどちらにしろ…カカシさん次第ですよ」
 イルカは楽しそうに笑いながら半分にちぎる。「いりますか?」と尻尾の方をカカシに見せるもカカシは首を横に振る。
「さっきので十分だよ」
 さっきの、とはあの頬っぺたについていた餡子のことだろう。恥ずかしさに怒りがぶり返す。眉に皺を寄せながら「そうですか」とたい焼きにかじりついた。
 カカシはそんなイルカを眺めながらニコニコと先ほどのささやかな幸福に浸っていた。
「じゃあ頑張って早く帰ってきますね」
「頑張らなくていいのでたまには自分の足で帰ってきてください」
「いやだな、先生ったら」
「そうですよね〜」
「そうですよ〜」
「「あははははは」」
 部屋に二人の乾いた笑いが木霊する。 
「じゃ、そろそろ行きます」
 カカシは立ち上がると傍に置いてあった背嚢を背負った。一週間の割には重装備な出で立ちにカカシが言った『過酷な任務』の言葉を思い出す。そしてこの男が里屈指の忍であることも。
「そこまで一緒に行きますよ」
「え。でも先生、疲れてるしいいよ」
 思わぬイルカの言葉に照れるカカシ。手をぶんぶんと振り回しあたふたとする姿はおよそ上忍とは思えない。そんなカカシを見るイルカ。その瞳に浮かんでいたのは"呆れ"ではなく紛れもない"哀れみ"であった。
「そこまでって、玄関なんで気にしないで下さい」
「うう」
 泣き崩れる上忍。悲壮な影がカカシの周りを覆いつくす。愚かにも大門まで見送ってもらえると思っていたのだろう。
 イルカとしてはあなたが気を遣う小指の甘皮ほどもない、というつもりで言ったのだが里でも指折りの上忍はこれまた指折りの頭脳をお持ちのようで、イルカの意図とは違うように受け止めたらしい。
 さめざめと泣く上忍を観ていると、偶に極たまに本当に極たまぁーーーーに思う。
 うざい、と。
 これは相手に対する嫌悪というよりも円滑な意思疎通が達成できなかった己の無力さへの苛立ちから派生した感情だとイルカは推察しているのだが、今のカカシを見ているともっと根本的な原因があるのかもしれないと考えてしまう。
 一方カカシは乾いた涙を流しながら考えていた、この絶望を希望に変える方法を。そして考え、考え、考え、考え抜くと一つの妙案が浮かんだ。
もうこれしかない、と顔を上げると最後のかすかな希望に追い縋る様に、相手の哀れみを引き出すかの様に、プライドも何もかも打ち捨て、雨の降る夜に電柱の下に捨てられた可哀想な子犬のような眼で、
「いってらっしゃいのちゅーとか」
 小さな望みを語る。
「今ここで、きざんで差しあげましょうか?」
 結果は無残悲惨の惨敗だった。
「現実はなんて残酷なんだ!」
「カカシ先生、そろそろ御自分の立場と年齢を思い出されたほうがよろしいかと」
「ぎゃっ、痛い話題!」
「その自覚はあったのですか」
「イルカ先生、今日は一段と苛烈ですね」
「カカシ先生ほどではありません」
 カカシの小さな嫌味もしれっと躱し、イルカは残っていたたい焼きの片割れに手を伸ばした。
 このイルカの素っ気無い態度に自分はもしかしたら本当にただの同居人に過ぎないのではないかという疑念が過ぎる。それはかつて無いほどの寂しさをカカシにもたらした。
「うぅ、そろそろ本当に行きますね。このままじゃマジ遅れる…」
 カカシは暗い冥府の闇に棲む幽鬼のようにのろのろと玄関に向かった。思った以上に精神的痛手を被っているようである。しゃがんだ背中からは負の気配が滲み出し、サンダルを履く手つきも微妙に覚束ない。
「ほれ、しっかりしなさい。上忍!」
「あ゛でッ!」
 ばしん、と銀髪を遠慮なくはたく中忍。本来なら懲罰物である。
「先生、ひどい」
「あ。すみません。丁度いい位置にあったもんだから、つい」
「丁度いい位置って…」
 えへ、と笑って過ごそうとするイルカは可愛いが、今一度イルカの中の自分の地位について再考する必要性を強く感じた。猫背がさらに丸くなる。
「だからすみませんってば!大体そんな暗い顔してたら幸せ逃げますよ」
「幸せですか…?」
「そうです。そんな悲壮な顔した人間のところにわざわざ幸せがくるわけないじゃないですか。誰が好き好んで暗い人間のところにのこのこやってきて幸せになりませんか、だなんて新興宗教の勧誘みたいなことしますか?」
「幸せって残念な人のところに降り注ぐ慈愛みたいなもんじゃないんですか」
「違います!幸せは自分の手で掴み取るもんです。あいつらは人間のノリを重視しますからね。ノリが悪いと全然ダメです!最悪です!」
「最悪ですか」
「最悪です」
 はっきりと言い切った。
 さらにカカシの襟首を掴むと、ぐいっと自分の方に顔を寄せる。お互いの呼気を感じるほどの距離。いつものイルカなら自分からこれほど顔を近づけること無いだろう。
 力強い漆黒の双眸がカカシを射抜く。
「だからもっとしゃきっとして、ちゃんと前を見なさい」
 真っ直ぐな眸。
 心の奥底まで見透かすように静かに燃えるこの眸にカカシは魅了されたのだ。この眸が自分だけを写すことを望んで。
「返事は?」
「ハイ」
「よろしい」
 そう言うと掴んでいた手を離した。
「あ。カカシさん、ホントに時間大丈夫ですか?」
 忘れていた、と謂わんばかりの言い様にイルカの熱血教師モードにスイッチが入っていたとみえる。
 未だ玄関に座ったままのカカシは訊ねる。
「ねぇ先生」
「はい?」
「俺は幸せになれるかな?今まで汚いこといっぱいしてきたし、今日だってこれから――」
 ばしん。
「っった!」
「だから、そういう考え方がダメなんですよ!大体あんたが幸せになれるかどうかなんて俺に分かるわけねぇだろ!」
「そうですよね」
 まるで全てを諦めた老人のように呟くカカシにイルカの神経が切れた。
「俺は神サマじゃない!それにあんたは神とか仏とかそういうよく分かんない存在の気まぐれで与えられる幸せで本当に満足できるんですか!?」
 カカシの胸倉を掴みあげると、さらに吐き捨てるかのように言葉をまくし立てる。
「俺はあんたの手が黒かろうが、赤かろうが、白かろうが、紫だろうが、緑だろうが、自分の手で掴んだ幸せの方が絶対満足できると思うし価値があると思います!!」
 強烈な怒り。
 それは人殺しの英雄を責めるのでもなく、里のシステムを否定するわけでもなく、ただはたけカカシという個人の矮小な思考を完膚なきまでに叩きのめした。
「って!俺、なにこんなところで熱弁かましてんだ!」
 我にかえるイルカ。自分の恥ずかしいセリフの数々に顔が赤くなったり青くなったりと大忙しである。
「カカシさんっ!ホント、任務まじで大丈夫ですか!?
さっきの忘れていいんで、つか寧ろキレイさっぱり忘れてほしいくらいでして、取り敢えず、今は任務に―――」
 
 やわらかな感触。
 あたたかな呼吸。
 高鳴る鼓動。

 カカシの眼が満足そうに微笑んだ。
「じゃ、いってきます」

 刹那、巻き起こる風。
 白い煙がイルカの視界を覆う。咄嗟に目を閉じる。
 そして目を開ければあるのは静かな部屋だった。

「憶えてろよ、帰ってきたら―――」
 イルカは唇を手の甲で拭った。



これも日常の一片