明け方見る夢に好いものは無い。
悪夢は真夜中ではなく明け方にその扉を叩く。無垢な心により深い爪痕を残そうと無防備なまどろみの隙を狙うのだ。
だから少年は陽が昇るよりも早く目を覚ます。
星屑は輝きを奪われ、暗闇はどんどん世界の端へ追い立てられる。そして、紺碧の夜空が茜色に染め上げられ月が西の端に沈むのを見送ると、純白の光が世界を包み込んでいく。澄み切った空は雲ひとつ無く、身を切るような冷たい空気が体の芯から凍らせる。
ぶるり、と寒気が背筋を駆けた。
少年は冷気が入らぬようにそっと薄茶色の外套の端を引き寄せた。




盲目的で非合理なアージ





木の葉には小さな川がいくつも流れている。大概が跨いで渡れる沢のような細い小川で、緩やかな流れの普通河川が数本あるだけである。中心部の外れ、家屋が点在する閑散とした地域にも一本の川が流れていた。それは木の葉の中でも比較的大きな川で堤防も築かれていた。
11月下旬、凩の勢いも一層強くなり河川敷では枯れ草が揺れ川では鴨の群れが悠々と泳いでいる。
この人っ子一人通らぬ寂寥とした川原でうみのイルカは独り膝を抱えていた。全身を草臥れた外套ですっぽりと覆い、刺すような寒さから耳と頬を守っている。
闇を写し取ったかのような眸がぼんやりと川面をみつめている。

「こんばんは」
びくっ。突然の呼びかけにイルカの小さな肩が揺れた。
振り返ると堤の上に一人の男が立っていた。長身痩躯の若い男で額宛を斜めにあて顔の殆どを布で覆っていて表情は判らない。木の葉の里では珍しい銀の髪が風に揺れている。猫背なのか、ポケットに手を入れているせいか背中が妙に丸い。
「寒くないの?こんなとこにいて」
口布越しに聞こえた声はずいぶんと落ち着いていた。纏う雰囲気も独特の静けさがあり間違いなく上忍クラス。少し逡巡したのち
「…寒いです」
イルカは素直に答えた。所詮、自分は中忍。上忍相手に嘘をついても得はない。それに下手な嘘を吐くより素直に答えた方が余計な詮索をされなくて済む。
「ここで何してるの?」
「何も…ただ座ってるだけです」
「じゃあ、なに見てたの?」
「川を見てました」
「それって面白い?」
「…分かりません」
男の質問にイルカは気が重くなるのを感じた。
独りでいるのが好きなわけじゃないが、構われるのが好きなわけではない。
人と接するのは疲れる。あれこれ考えるのがひどく億劫なのだ。特に年上の人間とはどう接していいのか分からない。だからはやくこの上忍にもこの場を去ってほしい。どうせ朦朧とした答えしかないし、上忍の好奇心を満たすようなものを自分は持っていない。
グァ、と一羽の鴨が鳴いた。
次々にばさばさ、と羽を広げ飛び立っていく。夕焼けに赤く揺れる水面。その上に焦茶色の羽が数枚落ちた。
「さみしい?」
「え?」
「鴨。飛んで行ったでしょ」
だからさみしい、と男は首を傾げた。口布でその表情を窺い知る事はできない。何かを試しているのか図っているのか、男が何を考えているのかイルカにはまったく分からなかった。
「…別に、鴨を見ていたわけじゃないので」
「さみしくない?」
「…はい」
ひゅう、と一陣の風が河を奔る。男は猫背をさらに丸めた。
こんな寒くて寂しい場所に里の財産である上忍が留まる理由も価値もない。はやく家に帰って暖をとればいいのだ。
しかし男はイルカの考えとは逆に土手の斜面を降りはじめた。背の高い枯れ薄や背高泡立草の群を掻き分けてこのうらぶれた歩いている。最後に狗尾草の群生を飛び越えると何故かイルカの隣に腰を下ろした。そして目の前に流れる静かな川に目をむけた。
中忍になって約半年。上忍には変わり者が多いから気をつけろ、と先輩中忍から何度も言われた。具体的に何をどのように気をつければいいのか彼らは言わなかったが、要は関わるな、と伝えたかったのだろう。それを理解したのは初めて上忍師以外の上忍と受けたBランクの任務だった。
彼らの興味・思考・行動は常人のそれとは掛け離れている。およそ俺たち凡人に理解できない次元で彼らは生きているのだ。"彼らに関わってはいけない"は"彼らの世界に足を踏み入れてはいけない"であり"彼らの狂気に触れてはいけない"である。
だからイルカは沈黙でもって目の前の上忍を消すことに努めた。
幸運にも男は目は川に向いている。イルカは再び膝を抱えると沈む夕陽を眺めた。
冬支度を終えた棚田のむこうに連なる山々は黒い影となり朱に燃える落日を半分ほど飲み込んでいる。薄く刷いた雲が赤く溶け名残惜しそうに纏わりつき最後の別れを告げている。あたりも随分暗くなり周りの草叢の影も濃くなった。あと数分もすれば完全に沈んでしまうだろう。
そうすると夜がくる。孤高の月が群青の空を支配し孤独に燃える星々が悪魔の嘆きを謳い、夢魔の嗤いが木霊する。そんな夜がきて、今日もきっと…
「一日中」
うら寂しい川原に声が響く。
考えるまでもなく声の主は隣に座っている男だった。
「今日、一日中ここにいたの?」
蒼穹の眸がイルカを捕らえる。
吸い込まれそうなほど美しい眸に恐怖すら凍る。圧倒的な圧迫感に逃げられないと直感した。
「今朝、陽が昇るときにもあなたいたよね。あれからずっと今日ここにいたの?」
「…はい」
「どうして?」
「今日は休みだったので」
三日前に任務は終了し明日まで休暇である。
「休みの日はいつもここにいるの?」
「いえ」
「じゃあなんで?」
困った。どうして身体を休めるための大切な休暇をこんな寒い河川敷で過ごしたのか、それも一日中である。実はイルカにもその理由はよく分からなかった。寒いのは嫌いだ。身体も気分も重く惨めになる。できるならば温かい部屋でテレビでも見ていたい。ついでにお茶とみかんがあればなお寛げる。
だが今日は一日中この荒れた川原で過ごしていた。寒さを忘れるくらい惹かれる何かがあった。心を占める圧倒的なものがあった。しかしそれが何かは分からない。
ただ思い出せるのは凍るような空気と朝日にきらめく水面、そしてそこ映る澄んだ青と白の世界だけ。
「川に映った空がきれいだったのでそれをずっと見ていたら……」
「こんな時間に?」
イルカは肯いた。
嘘は吐いていない。
自分は確かに空を見ていた。
群青の空が白み銀色に輝く月が西の空に沈むのを見送り、白く燃える太陽が空を青く染めるのを待っていた。朝露に濡れた羽を掃い鳥が謡い、突き抜けるような真っ青な空が世界を支配するのをじっと見ていた。暫くすると空いっぱいに広がった薄雲が流れてきた。時間が経つにつれ青空は太陽を反射し紫と橙の神秘的なグラデーションをみせ、それをベールのような雲が優しく彩る。そして一際緋く燃える西の空へとだんだん吸い込まれ、今また再び―――
「あなた面白いね」
男は猫のように目を細めた。僅かな落日が男を薄く染め上げていく。灰銀の髪は淡い橙にきらめき空色の眸は妖しい瑠璃色に光る。目の前の不思議な人間に恐怖にも似た感覚が胸の底で静かに騒ぎ出すのを感じた。
そんなイルカの想いとは裏腹に男はすっと立ち上がると
「いっしょにおいでよ」
手を差し出した。
その手は雪のように白く、指は硝子のように繊細で、真冬の三日月を彷彿とさせた。濃紺の空に浮かぶ細く長い今にも折れそうな月。でも他のどの天体よりも神秘的な純銀の輝きで闇夜を従える至高の支配者。
イルカは自然と手を伸ばしていた。
だが、一日中寒空の下にいた身体は撥条が切れた人形のようになかなか動かない。のろのろと動くイルカの手を男は硝子細工を扱うように掴んだ。そして、満足そうに笑うと雪の結晶を囲うように優しく包み込んだ。
手套越しに男の温かさが伝わる。ふいに息苦しさをおぼえた。