カカシはリュックを肩に担ぎなおしてまた一歩踏み出した。
この古く悲しい路は遥か昔から存在する。茫々とした草原の真ん中に走る白い路。
路の隅々には白っぽい石が転がっている。陰々と横たわる無数の怨恨は静かに佇み、血の上に築かれた世界を見詰めている。惨殺された無辜の民はこの白い路に何を描くか。
陽が沈みあたり一面が薄い闇に覆われはじめている。雲の隙間から燃えるような朱が覗く。秋の虫たちが交響楽を奏でたかと思えば空気が麻痺したかのような静謐が訪れる。盛夏を忘れた一陣の冷たい風が無慈悲に草叢を弄んだ。
「着くのは日付が変わる頃だな…」
カカシは何処までも続く白い路を眺めながら溜息をついた。
ステラとジッリョに捧ぐ退屈なチェントーネ
カカシは一週間の単独任務からの帰還途中だった。
任務そのものは現地の草の手を借りて滞りなく進み予定通りの帰還となった。ここ数ヶ月は複数単位での任務が多く単独は久しかったが、班での行動とは違う気軽さとプレッシャーが彼をほどよい疲労を与えていた。
カカシは目を細めながら歩いた。白い路の両側に緑の草叢がひろがっている。薄の白い尾のような花穂が軽い風に光る。伸びきった叢の他には何もなかった。点在する木はどれも細い枯木で視界を遮るようなものではない。たまに動物たちがかさかさと音をたてて移動する以外は虫の音しかなかった。
空が群青に覆われ夜の空気に変わった頃、風になびく草の波の遥か遠くにぽつりぽつりと点る灯がみえた。小さくも温かな光。その灯にカカシは里にいる恋人を思い出した。
「はやく会いたいな」
呟いた言葉は口布に吸い込まれた。
白い路を一陣の風が吹き抜ける。冷たい風はカカシの白銀の髪を優しく弄ぶ。
りりりりり…
虫の音が響く。愛しい人の心を掴もうと必死に奏でる恋歌。全身で、生命で叫んでも愛の歌は想い人に届くわけではない。それでも虫たちは奏で続ける。想いが届くと信じて。
一昔前のカカシならばこの虫の音を聞いてそのようなことを考えることはなかっただろう。彼はいつだって声を音としか認識していなかったのだから。
カカシは出発前に会った恋人の顔を思い出した。
風流を愛するその恋人は移りゆく季節の愛し方をカカシに教えた。春の桜、夏の祭り、秋の紅葉、冬の雪、どれも人の心を浮き立たせカカシを憂鬱にさせた。その賑やか雰囲気が渇きひび割れた彼の心には重かった。だからカカシはあの陽気な空気を肌で感じることがないように無意識に避けていた。しかし、人とは不思議なもので一つの出会いでこれまで築いてきた自分の世界をいとも簡単に壊してしまう。
カカシは瞼の裏に恋人を描く。
それはカカシが帰ってくることを確信したした表情だった。任務の出立前に会う彼はいつも力強い笑顔でカカシを送り出してくれる。それは不安を隠すための寂しい笑顔ではなく一人の忍としてその実力を信頼している表情だった。だからカカシは彼の信頼に応えるためにも任務を完遂し五体満足で帰還しようと努める。
ふと、後ろを振り返ると己の影がしゅるりと伸びていた。間延びした影。自分から離れられない、放すことのできない業。この白く埃っぽい路に横たわっているのはこれまで己が手をかけた者たちの髑髏かもしれない。ならば吹く風は無念の叫び声なのだろう。幸福など許さない。忘却など許さない。もがき苦しみ続けろ。声はそう言っている。それはカカシにとって疑問の余地なく受け入れられるものだった。
前を向いても白い路は途切れることなく続いている。絶望も希望も無い白く乾いたこの路は世界の果てまで永遠と続いているのだろう。そしてそれがはたけカカシが歩むべき路なのだろう。
新月である今日は見事な星月夜となった。漆黒に染め上げられた空には銀の星影が散りばめられ、どの星もまるで月のように光り輝いている。数え切れない無数の星々は冷たくも優しく地上を見下ろしている。今にも手が届きそうな星々。それを見ていると懐かしい記憶が甦った。それはつらい時代の大切な思い出だった。
スリーマンセルを組んでいた一人の少女が「死んだ人の魂は空へ煙って星になるの」と言った。
それは親友と認めた少年が死んだ夜のことだった。包帯の下の眼窩には少年からの贈物が収まっていたが、胸の奥底は深く昏い穴が開いていた。
少女の言葉に少年だったカカシは顔をしかめた。
少女が自分に好意を抱いていることをしっていたカカシには彼女が落ち込んだ自分を慰めようと少年の死を夢物語で肯定しているのだと解釈してしまう。そして辛く悲しいのは彼女も同じであるのにその彼女に慰められるとは絶望的な情けなさに落ち込みたくなる。
同時に魂――そんな見たことも触れたこともないものが存在すること、それが星になることを信じず疑っていた。
少女はそんなカカシの心情を知ってか知らずか、そのまま言葉を続ける。
「これ教えてくれたの、オビトなの」
少女はちょっと恥ずかしそうに笑うと座りましょ、と言って固い地面に腰を下した。カカシも同じように座ると少女は話しはじめた。
「私がはじめて任務で人を傷つけたとき、そう言ってくれたの。
はじめは私、魂とかそんなの信じられなかった。だけど、もし本当にあの星々が魂で私のことを見ていたら…て考えたの」
少女は膝を抱える。
「……怖かった。私のことずっと恨んでるんだろう、憎んでるんだろう、て」
それは忍として誰もが通る最初の関門だった。いや、ずっと付きまとう業である。
カカシは任務だから、と自分に言い聞かせ続けた。しかし、心優しい少女にとっては到底割り切れるものではなかったのだろう。
「でもね」
ふっと少女ははりつめた空気を和らげた。
「そしたらオビトがね。そうじゃないだろうって叫んだの。
あいつらは憎くて見てるんじゃなくてリンが間違った方向へ行かないように道を示してるんだ!て」
カカシにはそのときの様子が想像できた。少年は少女が純粋に好きだった。一途にこの少女を守りたいと思っていた。だから初めて人に手をかけた罪悪感に悩む少女を励まそうと必死に、全身で叫んでいたに違いない。
「少しでも一つでも多くの命を救える任務を、作戦を、技術を身につけることができる道へ導こうとしてる。
だから死んだ人の魂は空へ煙って星になる」
なんか無茶苦茶でしょ、そう言って少女は笑った。 しかし、それでもどうしても振り切れない切なさがその笑みに滲んでいた。
当たり前だ。考え方を変えただけで罪の大きさが変わるわけではない。いかなる理由があろうと、どんな大義名分があろうと人殺しは人殺しだ。
それでも少女は忍として生きている。罪の意識に苛まれながらも彼女の瞳には前に進もうとする強い意志があった。
「信じなくてもいいの。だけどカカシには知っておいてほしかった」
少女は今にも振ってきそうな星空に向かってその手を伸ばした。
「オビトはいつもそばにいるって」
白く柔らかな腕は傷だらけだった。蚯蚓腫れのような傷跡もいつまでも消えない。
しかし、カカシにはその腕がとても美しくみえた。その傷だらけの手が幾人もの仲間の命を救ってきたか知っていた。そして自分自身もその手に救われたことを。
その少女も今ではあの星屑の一つだ。
彼女の星はきっと多くの忍を最善の道へ導くだろう。
星といえば、かつて部下だった金髪の少年は北の夜空で一等光る星をみつけては俺の星だ、と叫んでいた。
それを桃色の髪の少女は疲れた顔で、黒髪の少年は呆れた顔で鞠毬のように弾む少年に「そんなわけないだろ!」とお決まりのように突っ込んでいた。たわいないやり取り。子犬のようにじゃれ付く三人を見ているのは楽しかった。上忍師という役目だからではなく自分自身が心から、彼らの成長を願っていた。強く立派に生きてほしい、自分とは違う道を歩んでほしい、と思っていた。否、今もそれを願っている。そして彼らを導くことができなかった自分の無力さを悔いている。
ほぼ変わらぬ位置にある北極星、それを自分を火影へ導く星だ、と少年は豪語していた。はじめはそのとき偶然選んだ星が北極星だったと思っていたのだが、少年はそれが北天の王として輝いていることを知った上で叫んでいた。その快活な姿が今は亡き恩師の顔に重なり不覚にも震えてしまった。
少年のことを知るにつれてそれが誰の影響を受けた言葉なのか知った。それは一介のアカデミー教師――だが、その人物は忌み嫌われる少年にとって唯一信じることができる大人であり、人間であった。
そして奇しくもこの人物はカカシにとっても唯一の人間となった。少年とは違う意味で――否、それを推察するのは時期尚早なのかもしれない。
永遠と続くかと思われた白い路にも終わりがやってきた。眼前に迫る鬱蒼と茂る森、この森に一歩入れば木の葉の領地に入る。安心はできないが里まであと少しと思うと気が軽くなった。
ふと、足を止める。
夜闇の巨大な森の手前、乾いた白い路の終わりにそれはあった。
茫々とした枯草と路の間――季節を忘れた鉄砲百合がひっそりと咲いていた。
三寸ほどの小さな百合は背の高い草に埋もれるようにしてその純白を輝かせている。因業な為政者と歪んだ掟のために大虐殺や磔刑にされた無辜の民を鎮めるかのように、彼らの平安を祈るかのように。
カカシは夜空を見上げた。
天上の星、純潔の百合。
慰められているのは死者か、生者か。
後ろを振り返る。
やはり白い路が永遠と伸びていた。