脆くて愛しくて恋しい、寂しがりやの、桎梏から逃れられない不自由な愛しい人よ。
どうか、どうか―――
Mystleteinn
4.矢
情交の熱も冷めやらぬうちに、するりと俺の腕を抜け出した彼は寝台の下に落ちた紺藍の浴衣を拾うと袖を通した。背中の中心にあるあの傷跡は浴衣で隠れ、首筋に残した赤い痕は黒い髪の隙間から覗くだけだ。俺は寝台で横になり彼の背をみつめていた。ピンと伸びた浴衣、まっすぐ、凛とした背。遠かった。
手を伸ばせば届く距離なのにひどく遠く感じる。拒絶とは違う情事の跡なんて感じさせない清冽で清潔な空気が俺を遮断する。先ほどまで自分の背に爪を立てていた指が慣れた手つきで帯を結ぶ指と同じものとは俄かには信じられない。甘い痛みは疾うに去り、今はただ虚無感と孤独感を冷たい敷布で隠すことしか自分にはできない。
「夢をみたんです」
ひたひたと後ろをついて回る漫然とした茫漠な不安を振り払いたくて俺は彼に語る。すべてを肯定してほしくて、すべてを否定してほしくて。ただ只管この拭いきれない黒い染みをみつめる。
「恐ろしい夢でした」
「あんたが死んで、俺は一人残されてただ生きていくんです」
「何年も、何十年も」
無情な時の流れ。恐怖と苦痛に恐れ戦き震えていた。彼のいない世界に、彼がいなくても生きている自分に、彼を忘れていく自分に。それでも優しくて残酷な秩序は淡々と時を刻んでゆく。
「一人で朝を迎えて一人夜に沈んで」
「春も夏も秋も冬も、どんなときも一人で」
「くるくると世界は変わっていくけど、俺は独り立ち尽くしてるんだ」
切り離された世界。切り離した世界。あの温かくて優しい時代の思い出が俺を生かし、また、殺す。先へ進むことができない。でも後へ戻ることなど決してできはしない。息ができないくらい苦しい。だからみんなみんな忘れる。彼から教えてもらったことは何よりも尊く愛しい。だから忘れる。
「泣き方も、笑い方も、怒り方も、みんな忘れて」
「ただ在るだけ」
「ただそこに在るだけ」
そんなものに何の意味があるだろうか。
「死んじゃえばいいのに、在るだけの存在なんて必要ない」
「死ぬことができたら幸福だったのかな」
「でも、独りが長すぎて俺は死に方も忘れてしまったんだ」
だから彷徨う。彼の面影を忘れることを恐れ、捨てることを恐れ、温かさに脅えもがき苦しみ続ける。
「ああ、厭な夢。惨めで滑稽だ」
腕の中に顔を埋めると次々と悪夢が目を覚ます。
記憶と違う里。冷たい風。安っぽいネオン。見知らぬ顔。虚構と欲望の街。孤独に雁字搦めにされて一人彷徨う亡霊のような不確かな自分。
薄暗い部屋の中、この掌は何を掴む。どこからが夢で、どこからが現実で、どこからが幻想か。
「あなたみたいな人が一人で?」
ホントに?と言って彼が振り向いたのが気配で分かった。顔を上げると漆黒の眸がこちらをじっと見ている。
「ほんとだよ。だって俺はいつだってあんたしかいないんだ」
腕を伸ばし彼のしなやかな身体を抱きしめ、闇夜を閉じ込めた艶やかな髪に唇を寄せる。確かな存在。どうしたら彼を捕らえ続けることができるだろうか。
「あんたに恋焦がれて仕方が無いんだよ」
耳元に吹き込むようにして囁いても彼は軽く肩を上げてからからと笑う。
「…相変わらず、酔狂なお方だ」
カカシさんならどんな人でも思いのままでしょ、とひどい言葉を投げつける。
「ひどいな。本当に思いのままだったらどれだけよかったか、でも」
「現実は残酷」
口唇に弧を描き笑う彼。俺は薄っすらと笑い肯定の意を表した。
世界は残酷だ。言葉は無力だ。どれだけ言葉を重ねても行為を重ねても必ずしも相手に伝わるわけじゃない。受け止めてもらっても自分と同一の重さとは大きさとは限らない。伝えても伝えても伝わらない。世界は決して交わらない。想いは届かない。二つの世界は一つにならない。
「こんなにも好きなのに」
透き通った美しく冷たい髪を梳く。
「俺のこの狂おしい感情はどうやったらあんたに伝わるのかな?」
回した腕に力をこめる。
「どこかに閉じ込めて、痛いほどに縛って、俺から離れられないようにしたらあんたは俺のことを信じるのかな?」
首筋に唇を寄せて
「そうしたらあんたは今度こそ本当に俺のものになるのかな?」
呪いのような願望を紡ぐ。
「あなたは本当に…不自由な人ですね」
消え入りそうな小さな声で呟いた彼は静かに目を閉じ額を俺の肩に預けた。
「そうだよ。俺はあんたに縛られた不自由な哀れな男だ」
「だからさ、優しいイルカ先生」
顔を上げた彼の両頬を優しく包み愚かな望みを願う。
「ねぇ、その優しさで哀れな俺を愛してよ。そばにずっといて」
そう言うと、彼はどこか傷ついたような顔で微笑んだ。
違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。
ふと視界の隅に目をやると紺藍の衣の裾がゆらゆらと暗い部屋で浮かび上がっていた。それは暗闇から彼を隔離しているようだった。身体の奥底で何かが疼く。
彼は再び茫洋と窓の外を眺めていた。深い沈黙と針のような静謐を纏った横顔は喜びも悲しみも怒りも表さずただ只管、雨脚が弱まった昏い情景を見据えていた。あの窓から何が見えるだろうか。濃墨の眸には何が写っているのだろうか。夜空を塞ぐ雨雲、真っ黒な闇の中を雨で触れて仄暗く光る家々の甍の波、カーテンの隙間から漏れる室内の灯。その先には雨すら食い物にする人工的なネオンの群れと欲望が渦巻く迷宮がある。これらは彼の眸に写るだろうか。
「カカシさん」
静かにそっと紡がれる俺の名前。優しくて悲しい響き。
「なに」
「もうすぐ夜が明けます」
臓腑が凍りつく。
「また、朝が来るんです」
彼の眸をみるとあのきらきらと輝く美しさがった。それは俺が恋焦がれる彼の眸にあったもの。だが目の前の彼には同時に霧雨に覆われた静寂さもあった。胸の奥でじわじわと生暖かい何かが動き出す。
彼はどうしてこんな恐ろしいことを話すのだろうか。眼の前が苦痛と恐怖に膨らんでいく。極彩色の恐怖がぐるぐると渦を巻く。ぽっかりと空いた虚ろな穴から歪んだ悲しい暗闇が覗く。
「あなたが何を思い何を感じようとも、どれだけ厭でも怖くても必ず陽は昇るんです」
濃墨の大きな眼が静かにこちらを見ている。吸い込まれそうなほど綺麗な闇色。慄く俺の神経を鎮めるかのようなひっそりとした静かな眸。それはグラスを満たす水のようだった。零れることもなく細く静かに無限に広がりつづけ乱れた神経を穏やかに揺り鎮めようとする。
「いつだって、どんなときにも、だれにでも」
優しい笑顔で温かな声で語る彼は光に溢れていた。無邪気で豊かな歓びに浸り爽やかで懐かしい感覚へ俺を誘う。
「これってすごい奇跡だとは思いませんか?」
いつかの記憶と重なる。
純粋に世界の神秘を喜ぶ彼。楽しそうなその口振りからその嬉しさを伝える動作までつぶさに目に浮かぶ。そうすると胸の奥底で小さな白い光がパッと弾けるかのように閃く。その白い光は眩暈を波打ち、熱っぽい陽炎がその淵をちらちらと白く揺らめく。とすさまじい勢いで息もできないほどの悪寒が襲う。無感覚な絶望感が自分の身体を貫く。無数の世界を保つ恒常性。人の力を越えた遥かに大きな力がはたらくこの世界。俺の望みは一つだけ。でも奇跡の支配するこの無慈悲な世界はそれを決して叶えない。
「俺は……奇跡なんかいらないよ」
「カカシさん…」
彼が困ったのが分かった。俺はこんなにも彼の気配に敏感なのに、どうして彼は俺のことを理解してくれないのだろう。どうして想いは伝わらないのだろう。溢れ出た、器から零れた水を世界は受け止められない。
どこからが夢で、どこからが現実か。
もう目なんて覚めなくていい
朝なんてこなくていい
ただ、彼がいればいい
それでも朝がくる。ならば、どんな朝がくるのか。
「でも、」
彼が手を重ね、瞳をあわせる。
「今この瞬間だけはこうやって触れ合えて、目を見て、声を聞いて、ことばを伝えて、あなたが生きてる、存在してるってことが分かる」
俺を射抜く漆黒の眸。
「あなたがいて、俺がいる。それを感じることできる」
手を握り返すと冷たい指先からじわりとほんの少し温かさを感じる。
「世界は残酷だけど、きっと優しい奇跡に満ちている。あなたが思っている以上にこの世界は楽しい。だから―」
ふと、彼が窓の外に目をやる。その先には
「ああ…陽が昇りましたね」
穏やかで優しい口調。その顔にはなんの迷いも恐れもない。
優しく残酷な奇跡は終わりとはじまりを告げる。
白く揺らめく陽炎が彼を飲み込む。
「イルカ!」
俺は誰よりも愛してる人の名を叫んだ。
瞬間、彼は最も美しい微笑を浮べた。