Felix qui potuit rerum cognoscere causas.


俺が初めて彼の顔を見たのは受付だった。まだ三代目が健在で里は穏やかな時間が流れていた。彼は三代目の隣で任務報告受付や任務の割振りといった事務作業を行っていた。俺が上忍師になる前だから今から二年半くらい前だろう。窓から入る西日が強くて目が痛かった。

彼の顔には感情が溢れていた。喜怒哀楽は勿論のこと百面相かと思うぐらいにコロコロと表情が変わった。とても変化に富み柔軟であった。頭上に結ばれた黒髪も彼が動くたびに揺れて飛び跳ねた。
俺はその様子を眺めているとひどい息苦しさを感じた。その息苦しさは咽喉に小骨が刺さっている感じに近かった。
その後、俺と彼が会うことはなかったけど彼の存在は俺の中に残った。

そして俺は上忍師になった。うずまきナルト、うちはサスケ、はるのサクラの3名は初めて俺のテストに合格した優秀な忍だ。下忍認定報告と合同引継ぎの際はじめて彼の名前を知った。特に感慨も何もなかったけれどあの人そんな名前だったんだ、と思った。同時にあの息苦しさも思い出した。

正体不明の感情はあまり好きではない。任務は常に冷静でなくては遂行できないので、それを阻害するものは邪魔でしかない。なので俺は彼とはなるべく関わらないようにしてきた。一般部隊の任務の言い渡しはすべて受付を通すので気をつければいいのは受付だけなのだが逆それが何よりも難しくてどんな場合でも気が抜けなかった。彼はアカデミー教師なので昼中はいないのだが夕方と夜間は鬼門だった。
このように何気ない部分で日々疲れている俺にさらに追い討ちをかけるが如く面倒な任務が言い渡された。
三代目は煙管を煙らせながら任務書を渡した。俺はそれを受け取り内容を確認した。
「これが次の任務じゃ」
「はぁ」
「なんじゃその気のない返事は」
笠の下から鋭い眼光が飛ぶ。俺は頭を掻きながら思ったことを言った。
「文句を言うわけじゃないですけど、この任務明らかに内部調査忍の仕事じゃないですか」
「調査結果が納得いかなくてな、悪いが調べなおしてほしい」
専門部署があるじゃないですか、と言い返したら人手不足でな、と返された。
「俺、内部監査なんてしたことないんですけど・・・しかも相手が暗部って」
「監査自体は大丈夫じゃ、通常報告と大して変わらん。自分の見た結果をそのまま調査報告書に書けばよい」
確かに添付されてる報告用紙を見る限りあまり特殊な事項はないみたいだがやはり気は進まない。
「俺、暗部引退して結構経つんですけど・・・」
「もう四年か、早いのぉ」
三代目は懐かしそうに目を細めた。
「子供の面倒って結構神経使うんですけど・・・」
これは単なる愚痴だ。
「忍は忍耐力じゃ」
「はぁ・・・」
なんだか有難いお言葉をいただいてしまった。
「やつは明日任務に出る。心してかかれ」
「・・・分かりました」
俺は頭を下げ、執務室を退いた。

任務内容はある暗部の行動監視。暗殺戦術特殊部隊、通称暗部には異常と診断される人間の数が一般部隊よりも多い。これは暗部の任務の特殊性によるところが大きい。入隊時点では健全であっても気が付けばどこか人とズレ、それが進行し最後は異常となる。異常者による異常行動が目立てば暗部の存在が危険視される。しかし暗部は里の大きな戦力、なくてはならない存在のため部隊自体を解散させることはできない。よって暗部内の独自調査機関が定期的に調べ危険因子をみつけだしている。この暗部は前回の調査で要注意人物と判定され今回の精査対象となっていたのだがどうもその調査結果が曖昧で不確かな部分が多い。よって再調査が行われることになった。何故、監査経験もない俺が抜擢されたのかは謎であるが、任務最中の暗部を冷静に私情を挟むことなく客観的視点で追尾するだけの人材がいない、とのことらしい。


任務当日、調査対象となった暗部の任務は5人の脱獄者の処分だった。暗部は彼らをわざと離散させ闇夜にまぎれ一人ずつ処分していった。月も星も煌々と輝き、暗い森の中を明るく照らす。追う者にとっては今夜は最適な日だろう。俺は残された死体をつぶさに点検し暗部が何か偏執的行動を起こしていないかを調べた。
スマートな殺し方をするのだな、というのが死体を見た第一印象。どの死体もきれいなもので急所を一発。多少抵抗した後が見られても致命傷となる傷は一つか二つ。処分方法、死体状況ともに異常なしと判断した。
では、どうしてこの暗部は調査対象になったのだろうか。
俺は暗部が5人目が処分するところで何か掴めないだろうかと現場に急いだ。

何とか処分する前に到着することができた。この脱獄者はずいぶんと逃げ回ったらしく他とかなり離れた場所にいた。息が切れ荒い呼吸を繰り返しているが傷も掠り傷程度でまだピンピンしている。対峙する暗部は暗部は息すら乱れず、静かに男の前に前に立っていた。俺は葉が蔽い茂った常緑樹に身を隠し二人の様子が見える位置で観察することに専念した。
調査対象となった暗部は男。面は狐。年齢は俺と対して変わらないだろう。たぶん20代後半。体躯は忍としてほぼ理想的で、筋肉の付き方もバランスがよい。傷跡が多いのは彼の任務の過酷さを示しているのか、それともただ単に自意識過剰によるものか。処分方法からすると前者だが真相はわからない。武器は変形クナイが一本。変形クナイも多種多様だけどあのタイプは殺傷力、耐久性ともに群を抜けている。その分、欠点が多くて使用者は少数だが。暗器は装備してるだろうけど他に目立った武器が確認できないからあれが主要武器と思ってまず間違いない。月の光を受けて赤黒く光るクナイが血に飢えた獣ようだ。
暗部は一歩、また一歩と静かに男に近づく。音もなく歩くその姿は幽鬼そのもののように思えた。
生殺与奪権を握られた男は意味のなさない呻き声をあげながらじりじりと後ろに下がっていく。男の背が樹にぶつかった。「ひぎゃ!」と奇声を上げ後ろを振り返った。樹だと分かって安心したが同時に追い込まれたことも認識した。男の視線はあたりを彷徨い、歯の根は震え、声は音にすらならない。
男は突然地に頭を擦りつけ、命乞いをはじめた。
「頼むっ!助けてくれ!!俺は逃げるつもりなんてなかったんだ!」
まさかこの場に来て命乞いとは、俺もいささか驚いた。
しかし暗部に命乞いなど無駄なことだ。彼らは命令遵守を徹底的に身体に仕込まれている。現に暗部は先ほどと何一つ変わっていない。
「あいつらが協力しなきゃ逃げた後で俺の家族を殺すと脅したんだ!!」
男は泣き必死に叫ぶ。
暗部はまた一歩近づいた。首元で結んだ黒髪が闇夜にひらり、と踊った。
その瞬間、俺はあの髪を思い出した。うみのイルカのあの揺れて飛び跳ねる黒髪を。
俺は心臓を鷲掴みにされたような気がした。相手は暗部で異常者調査の対象とされている人物で決して彼であるはずがない。なのにどうしてだろう、そう思っただけで目の前の暗部がどんどん彼と重なる。背丈骨格見える全てが彼と同じ気がする。
もし彼がこの任務を受けたならあのような綺麗な殺し方をするのだろうか。分からない。だがそれは彼にとても似合ってると思う。あの息苦しさが戻ってきた。
「お願いだ!お願いだ!殺さないでくれっっ!!」
男の悲鳴に目が覚めた。俺は今なにを考えていた。
暗部が一歩踏み出した瞬間、男の顔が上がりその手が暗部に伸びた。一瞬の後、ぽとり、と男の手が落ちた。ぎゃぁああああ!と耳障りな声があたりを木霊した。
「手が、手が、手が、手がぁあああ!!」
男は手首から先がなくなった腕を掴み、涙と鼻水で汚れた顔を振り乱し地面に這い蹲った。
俺は驚いた。今までの処分にこのような見せしめ紛いのことはなかった。これがこの暗部の本性か。
綺麗な死体、綺麗な殺し方、潔癖とも感じられるその手法なら俺の知るうみのイルカのイメージと一致する。だが目の前の暗部は男の手をわざと切り落とした。俺の見立てが正しいならこの暗部はさっきの一瞬でこの男を処分できたはずだ。やはりこの男と彼は別人か。だけど何故かあの息苦しさは治まらない。
暗部は男のすぐ傍に立ち泣き喚く様子を動くことなく静かに見ている。あの面の下ではいったいどのような表情が浮かんでいるのだろうか。面と同じ奇怪な笑みか、くだらないと無愛想な顔か、それとも泣きそうな顔か。
暗部が動いた。男の身体を蹴り上げ、その心臓にクナイを突き立てた。
男の目が驚愕に見開かれたあと顔全体がにんまりと引きつった。危険を感じた暗部が離れようとした瞬間、男の口から液体が吹き出し空中で爆発した。暗部は間一髪で避けたが爆発の勢いで面が吹き飛んだ。
暗部の顔が顕になる。
刹那、この世のものとは思えぬ声が耳を劈いた。男は顔をこれ以上ないほど引き攣らせ、絶命した。
俺には男の悲鳴が聞こえなかった。それは男の声帯が、命が、その機能を既に失っていたからかもしれない。だが俺には男が全身で叫んでいたことを知っている。
男は最後の最後で自ら恐怖に飛び込んだ。開ける必要のない扉を開け死ぬ前に死を知った。よりも恐ろしいものを知り死んだ。
だけど男はまだ幸福だ。だって俺はまだ生きている。そしてあの暗部を、彼を知っている。
あれは本当に彼なのだろうか。いや、それよりもあれは人なのか。人だとは思えない。だってそうだろ、あれには顔がなかった。
誤解しないでほしい。顔がないというのは首から上がないという言う意味ではないしのっぺらぼうのようなわけではない。顔…頭部はある、目も鼻も口もある。だけど顔がない。俺はあれを顔だと思えない。
顔というのは一番人間らしさが溢れる象徴的部分だ。それが彼にはない。無表情というのとは違う。黒い瞳も整った鼻も赤い唇もそこにある。だが、ただそこにあるだけなのだ。それはまるで動く身体を持った死人のようだ。人を否定しあるべき生の顔がないから、きっとあの変化に富んだ表情がつくれるのだ。そこには意思も感情もない。だからあるのにないように思い、存在が非存在に感じる。目で見て認識してるのにどうしても存在を感じられない。だから恐怖を感じる。
背筋に走る寒気と全身の震えが止まらなかった。俺は今なにを見た。あれは何だ。人か、あれは人なのか。
俺は目を瞑り息を吐き、ひたすら震えを止めようと努力した。
「・・・顔が、なかった」
「誰の?」
「ッ!!」
声は後ろから聞こえた。俺はそれを理解するよりも前にその場を離れた。地面に手をつき、今しがた自分のいた場所を見るとそこには彼がいた。闇を溶かしたような眼で俺を見ていた。
「イルカ先生・・・」
俺は自分の口からでた言葉が信じられなかったし、信じたくなかった。だれかに否定してほしかった。だけど俺は心の奥底でほんの少しだけ肯定してくれることも期待していた。
「カカシ先生が・・・俺の名前を知っているとは思いませんでした・・・」
小さく消えてしまいそうな声だった。彼は目を閉じ半身を樹に傾けた。その動きは緩慢で疲れているようにもみえたが、俺には闇に溶け込る寸前のように感じた。
「部下の担任の名前くらい知ってますよ」
俺は目をそらした。彼を見ていたくなかった。見ていると先ほどの恐怖が戻ってくるような気がしたからだ。あの感覚には耐えられない。今も思い出しただけで指先が震える。
「そうですか・・・」
彼はそう言っただけだった。
ガサガサと風に揺られて葉音が鳴り響く。奇妙な沈黙が続いた。
俺は遠くで転がっている死体を見た。男の顔はやはり歪んだままだった。
「暗部・・・だったんですね」
「はい」
彼の声はやっぱり小さくて、本当にあのイルカ先生なのだろうか、と疑問に思ってしまう。
「少し驚きました」
だが、顔を見ることはできない。それはあまりにも恐ろしすぎる。
「そうですか」
簡潔で単調な返事。でも律儀に返してくれるところがどこか先生らしくてやはり同じ人間なのか、と思ってしまう。
あの百面相とも思えるイルカ先生が今一切の感情を落とし恐怖を具現化した姿で目の前に立っている。
「いつから気づいてたんですか、俺のこと」
俺は震える指先を強く握り締めた。
しかし木の葉の揺れる音だけで先生の声は聞こえなかった。俺はふと、彼は本当に樹の上にいるのだろうかと思った。気配を読みとろうにも彼の気配が感じられない。顔を上げて確かめればよいのだがどうしても顔を上げることができない。迷った末、俺は恐る恐る顔を上げた。
彼はそこにいた。黒い瞳が俺を捕えた。赤い唇が攣りあがる。

「調査、失敗ですね」

そして彼は闇に溶け、消えた。


そのときの感情をどう表現したらいいのか分からない。恐怖に身体の芯が凍りつき震えることすらできなかった。
ホー、ホーという梟の鳴き声を聞いたとき俺は任務は失敗したことに気づいた。彼は最初から俺の存在に気づいていたのか、俺が声を発したときに気づいたのか、分からない。いずれにせよ、彼は自分自身が調査対象になっているを知っていた。そしてそれを俺に告げた。
その真意はなんだろう。分からない。だけど俺はそれが彼に近づくことを許された証のような気がした。

息苦しさはなくなった。それは彼を知ったからだろうか、それとも俺はもう息苦しさすら感じられなくなったのだろうか。答えは分からない。
きっと彼も知らない。